90年代分析1(音楽)ミッシェル的なもの

久しぶりに千葉氏(昔あったミッシェルガンエレファントのボーカル)の声を聞きたいとお思い、YOUTUBEで検索してみた。そしたらROSSOとBIRTHDAY(2000年代に千葉氏がやっているバンド)の音も聞けた。

たぶん、ある一定の人間にとって、ミッシェルは何か特別なものがある(正確には《あった》と言うべきか)のではないかと思う。考えてみるべきは、いったい何が《特別》であったのかということだ。しかし、これはあくまで個人的な出来事にすぎない。あくまで個人的に共有されるべきある種の特殊性*1
僕がミッシェルを最初に聞いたのは、それほど初期ではなくて、1996年ぐらいだったと思う。メジャーアルバムの一枚目か二枚目が出てたころじゃないだろうか。今Wikiで確認したら、どうも最初に出合ってるのは、メジャーのファーストアルバムの『カルトグラススター』らしい。なるほど、ある意味で、この時期は、僕自身にとってあらゆることが最も澄んで見えていたころだったような気がする。

《あの特別なリアリティ》

覚えているのは、ミッシェルが当時やってた(今もやってるのか?)HEY!HEY!HEY!に出たことだ。あの時に、僕の周りで論議が起こった。ミッシェルはHEY!HEY!HEY!に出るべきではなかったのではないか。いや、むしろ出るべきだった。など。

その根拠となっているのは、当時ミッシェルが持っていたある種の特別さ、音楽業界に対して提示していた何らかの《リアルさ》への影響の問題だったと思う。マスメディアに出ることで、その《リアルさ》が失われるのではないかのか?という懸念が反対派の根拠であり、一方で、その《リアルさ》によって、虚構である現実を塗り替える良い兆しであるというのが肯定派の根拠だったと思う。

どちらも共有するのはある種の《特別なリアリティ》。

そして、この全く《個人的》でしかない《リアリティ》が、本当に個人的なものではないということが明らかになってしまったのが、あの《横浜アリーナ事件》だと思う。

あの時僕は、種々の事情で京都にいて、ライブにはいきたくても行けない状態だったのだが、そのライブチケットは即日完売しかも、《横浜アリーナ》なのに《オールスタンディング》だ。

この意味は今ではあまりわからないかもしれない。横浜アリーナと言えば、当時では例えばサザンオールスターズとか、チャゲアンドアスカとか、ドリームズカムトゥルーとか、そういった感じの場所で、しかも基本的には、《コンサート》の形式をとるものだというのが常識だ。

そして、僕らの感覚からすれば、この《コンサート》というやつは、《虚構としての現実》を象徴するものに他ならない。マスメディアによって作り出された虚構の世界をそのまま演出しそれを観客が一方的に享受するのが、《コンサート》であるという理解があった。だから《コンサート》は無条件にダサい。

だから、ミッシェルがその《横浜アリーナ》でやるというのは、ある意味で事件だった。それまでミッシェルは《ライブ》にこだわっていたので、確か小さめの《箱》(集客人数せいぜい1000人程度までのライブハウスのことを箱という。中に入ると実際、箱みたいに見える)でしかやってなかったはずだ。そして、その姿勢に、ミッシェル支持者たちは、強い肯定感を抱いていたのも確かである。ある種のリアリティを共有しているという信頼感があった。

そして、ミッシェルがその信頼感を維持するために、あるいは単に、ある種のリアリティを維持するために、所属レーベルの営業方針にまで影響力を維持しているように見えていたということもまた信頼感につながっていたように思う。ここにも《マスメディア》に対する抵抗、あるいは単に、やつらはダサいという信念が見えていたことに安心感を抱かされたように思う。

そのような状況の中で、そのミッシェルが、《アリーナ》でやるというのだから、事件である。そして、そのニュースを聞いた時、一同不安に駆られたと思う。やはりミッシェルもこれまでのいろいろなものと《同じ》でしかなかったのか。

しかし、次に入ってきたニュースは、それを《オールスタンディング》でやるというニュースだ。これにははっきりと驚いた。《オールスタンディング》というのは、当時の《箱》での常識であり、前提事項であった。《オールスタンディング》というのは、ただ突っ立てるわけではない。客は動く。動くというか、暴れる。それを当時(今でも?)モッシュと呼んでいた。ある意味で、箱に行く理由の一つは、そのモッシュにあったとさえいえる。観客はすしずめで暴れるので、自分の動きは人の動きに左右され、人の波がある共有された快楽によって強制運動させられ続ける快楽。理性的なものは、たとえあったところで、大した機能は持ちえないという暴力的な現実。

今思えば、明らかに《ファシズム》の熱狂に近いんだよね、あれは。

そして、それを《コンサート》(これは反対に理性的なもの、近代的なものの象徴であった)の聖地、《横浜アリーナ》でやろうっていうのだから、驚いた。

結果的に、その《ライブ》は成功し、日本のロック史の中の重要なメルクマールを残すことになる。

しかし、このとき僕は同時に、

「ああ、もう終りなのかもしれない」

という漠然とした喪失感を持つことになる。ただ、そのときはそれは単なる、思いすごしかもしれない、単なる感傷的な懐疑にすぎないかもしれないと思って、たいして本気にしていなかった。ただ単純に気になっていただけだった。

そのような危ぐを確証するかのように(と僕には感じられた)、2001年にミッシェルは活動を休止する。

たぶん、問題は、《個人的なもの》でしかなかったはずのものが、いつの間にか《共有されたもの》であるということが、厳然たる事実として理解されるようになってしまったこと、いやむしろ、これほどまでんに《個人的なもの》でしかなかったものでさえも、《共有されたもの》に変質するのだという、現実の残酷さと別種のリアリティに打ち負かされたのかもしれない。

《個人的なリアリティ》なんてものはこの世界のどこにもないんだね。

横浜アリーナの映像をくっつけようとおもったけど、どこにもない。DVDで出てるのに上がってないということは、ファンの倫理感が強いせいだろうか。とか変な期待をしてしまう*2

最盛期と僕が個人的に判断する98年の映像。モッシュの感じもちょっと伝わるだろうか。「上に飛べ、上に」って千葉氏が言ってますが、つまり客は勝手飛ぶんです。それもごく自然に「前に」飛びます。なぜなら前のほうがステージに近いから。理由は単純ですね。でも前に飛ぶと前の人間はどんどん圧縮されていきます。しまいには大変なことになりますが、それがモッシュです。



特に関係ないですが、千葉氏がかっこいいです。

*1:ちなみに、ここで、このようなことが言えるようになったのは、もはやここで感じられていたことが過去のものになったという実感があるからだ。つい数年前までは、たぶんまだ信じてたと思う。そして信じていることについて人は語ることができないのだ。なぜなら、信じていることを語ったら、その瞬間にその信じていることを裏切ることになるからだ。つまり、そこで信じられていることは、ある非言語的な、あるいば前言語的なリアリティに他ならない。

*2:なぜ、ここで《倫理感》という語が自然に出てくるのか不思議に感じる人もいるかもしれない。しかし、ここでのモッシュに現れているような暴力性は、一方では倫理的なものでもあったのだ。実感として。暴力こそが倫理であるというのは、この時期に確かにあったと思われる何かでだった。《暴力と非合理こそが正義だ》というのは、矛盾しているようだが、当時としてはそれが実感だった。9.11との関係で考えなければならないテーマがここにある