「不在としての他者」から「暴力としての他者」へ1

煙か土か食い物 (講談社ノベルス)

煙か土か食い物 (講談社ノベルス)


0. はじめに


今回は、前回のエントリー(「舞上王太郎の『ディスコ探偵水曜日』について」)に対してある種の修正・補足を行いたいと思う。より正確には、単なる補足ではなく、前回の議論が達した中間的な地点に別の筋道を辿って合流することによって、私たちの考察を次に進めるためのより幅広い足場を作成することを目指す。


修正のポイントとなるのは、
村上春樹の文章には『他者』がない。その『他者の欠如』が90年代以降の彼の文章を支えていたものであった」
という一文に凝縮された判断である。
この判断に対して、ここでは、
村上春樹の特徴は『他者の不在(欠如)』を描くことにあり、この『不在としての他者』がデヴュー以来の彼の文章を支えてきた」
という見解を提示し、その上で、村上と舞城の異同をより鮮明に把握することを試みる。


『不在としての他者』とは何か。それを考察するためには、「他者」の対項である「自己」についても言及する必要がある。というのも、村上春樹において、いかに他者を描くかという問題は、いかに自己を描くかという問題と常に強く結び付いているからである。


「自己」と「他者」の関係という視点から村上作品を読むとき、その特徴は以下の3点の併存にあると思われる。


・倫理的個人主義
・意味論的独我論
・不在としての他者


唐突に造語を並べられても当然よくわからないだろうが、以下でひとつひとつ説明していく。



1.倫理的個人主義


 第一に、村上作品の基底には「倫理的個人主義」とでも呼ぶべき態度がある。これは簡単に表現すれば、「この世界が自分にとって納得のいくものとなるように生きていくべきだ」という考え方であり、1960年代までの左翼的世界観を規定していた「社会的理想」に基づく倫理=「この世界が皆にとって納得のいくものとなるように生きていくべきだ」という考え方と鋭く対峙する態度である。後者の論理は、1968年前後の学生運動を境に急速に空転し空虚なものとなった。この変化を文学において強く徴づけたのが初期村上作品であることは、しばしば指摘されることである。これに対して、前者の倫理は、「自分にとって意味のあること」「自分で考えたこと」「自分が納得できること」を重視して生きていくべきである、といった態度を意味する。両者の倫理の対比について、村上は最近つぎのように語っている。

「ネット上では、僕が英語で行ったスピーチを、いろんな人が自分なりの日本語に訳してくれたようです。翻訳という作業を通じて、みんな僕の伝えたかったことを引き取って考えてくれたのは、嬉しいことでした。一方で、ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思うのは、ひとつには僕が1960年代の学生運動を知っているからです。おおまかに言えば、純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす人間が技術的に勝ち残り、自分の言葉で誠実に語ろうとする人々が、日和見主義と糾弾されて排除されていった。その結果学生運動はどんどん痩せ細って教条的になり、それが連合赤軍事件に行き着いてしまったのです。そういうのを二度と繰り返してはならない。」
(『文藝春秋』2009年4月号 村上春樹独占インタビュー「僕はなぜエルサレムに行ったのか」:エルサレム賞受賞の際に行ったスピーチについて語っている部分)


上で対比されている「正論原理主義者」と「日和見主義と糾弾された人々」のうち、村上が後者の立場に拠ってきたことは明らかである。ただし、彼の特徴は、単純に社会的理想の倫理を否定して「自分が好きなように勝手に生きれば良い」という楽観的なメッセージを広めるのではなく、人々が共有する幻想としての「社会的なるもの」から切り離された「個人的なるもの」において、いかに倫理を問うことができるかに焦点をあててきたことにある(この社会的正義から個人的内閉への移行について、村上本人は「以前はデタッチメント(かかわりのなさ)ということがぼくにとっては大事なことだった」と後に表現している)。「いかにしてこの世界は自分にとって納得のいくものとなりうるのか」と問うことは、「自分勝手に生きれば良い」と語ることとは根本的に異なる。様々な物語を生きる主人公「僕」の姿を通じてこの問いを繰り返し切実に追及してきたことが、村上作品の個人主義を「倫理」と呼ばれうるものにまで押し上げている。


以上で述べてきた評価は目新しいものではない。例えば、村上(1949年生まれ)と同世代の評論家である加藤典洋(1948年生まれ)は村上のデヴュー作「風の歌を聴け」に依拠しながら次のように述べている。少々長いが引用する。

70年代に入ると、時代の色合いは変わり、1960年代後半のたとえば貧しい人を助けるべきだ、というモラルは、ラディカル化したあげく、没落する。「金持ちなんて・みんな・糞くらえさ。」という鼠の声は、そういう中、急速に説得力を失っていく。もう誰も他人に対し、「我々は……すべきだ」とはいわない。そういう「正しい」声は、もう誰の耳にも、そう語るものの独善的な「正義感」の押し付けとしか聞こえない。その真摯さを支えてきた現実的な根拠が、高度成長によってみるみる侵食され、これに代わって新しい都市風俗の魅力が人々をとらえるようになるからだ。
[…中略…]
さて、そうして、多くの若い書き手が、この種のモラル的定言を嘲笑の対象とする時代がくる。そしてそれは、嘲笑されるに値する。それは、牢固とした時代錯誤と独善のもとに、人に硬直した正義を説く、「インテリゲンチャ」の言葉なのだから。しかし、そのような時期に、村上は、モラルの入った水盤を彼らのように捨てない。いわば死んだモラルを、動かないクリヴェリナのように抱え続ける。マクシムとは、「我々は……すべきだ」というモラルに対し、「私は……することにしている」と呟くものであり、村上は坂道にかかる車がいったんギアをローにおくように、それまでモラルに入れられていたギアをここでいったんマクシムに「下落」させ、そうすることで、この困難な時代に、モラルを仮死の状態で生き延びさせようとするのである。
加藤典洋村上春樹イエローページ1』:p228-229)

注:
・モラル(道徳)=万人に適用される普遍的なルール 
・マクシム(格率)=自分だけに適用されるルール、行動基準。
↑カントの用語法において、マクシムはモラルへと育っていくモラルの萌芽形態。


 ここでいうマクシムとは、自分だけに適用される行動基準を自ら作り、それを忠実に守るということであり、それは、初期村上作品の主人公(=「僕」)に共通して見られる性質である。『風の歌を聴け』の「僕」は、乗った電車の乗客の数からセックスの回数まで全てを数えることにしているし、『羊をめぐる冒険』の「僕」はエレベーターから自室までものさしで「線を引いたみたいに」正確にまっすぐ16歩あるく自己訓練を長年続けてきたと述べる。そして、これらの性質は、しばしば妹や恋人など親しい人間に彼らが突き放される要因となる。例えば短編『ファミリー・アフェア』では結婚を決意した妹が主人公を次のように非難する。「あなたはものごとの欠点ばかりみつけて批判して、良いところを見ようとしないのよ。何かが自分の基準にあわないとなるといっさい手も触れようとしないのよ。そんなのってそばで見てるとすごく神経にさわるのよ」(p77)。

 
 ただし、加藤の論述には疑問が残る。なぜモラルからマクシムへの「下落」が「モラルを仮死の状態で生き延びさせようとする」試みだと言えるのだろうか(注)。この疑問に対する返答となりえそうなのは、『羊をめぐる冒険』後半の下敷きとなった映画『地獄の黙示録』についての村上自身の論述に依拠しながら加藤が論をすすめる以下の箇所である。


注:この主張、および「内閉への連帯」という主題をめぐる加藤の論述は、村上作品の冷静な分析であるはずのところに、彼自身の個人的な希望のナイーブな表明が混ざってしまっている印象も強い。

思想も伝統も文化も信じられないところでは、どのような物語も可能である。しかし、何も信じず、すべてが相対的なものに過ぎないという状態を意識的にどこまでも追及していけば、わたし達は結局、ひとつの物語の核にぶつからざるをえない。コッポラはちょうどそういうことを『地獄の黙示録』で試みている。
[…中略…]
 村上はその『地獄の黙示録』を論じた評論に、『地獄の黙示録』は最後、「人は自我との対決に耐えうるか?」という問いにぶつかっているのだ、と書く。コッポラは何をしたことになるのだろうか。何も信じられない限り、最後、世界の輪郭はそのまま自分の輪郭に重なる。そこでは世界とはそのまま、自分の内側の世界のことである。コッポラは、世界がその内容物を溶解させてしまい、一個のカオスと化した後、なおそれと対峙することで、一つのことを明らかにしている。人はもし、思想、歴史を信じられないなら、最後自分にぶつかるほかない。少なくとも村上はコッポラのメッセージをそう理解し、これに共感し、彼の『羊をめぐる冒険』を書く。
加藤典洋村上春樹イエローページ1』:p152)

 モラルから撤退した「僕」は、自分なりの行動規範=マクシムを武器として社会的通念に抗しながら生きていく。その姿は、自分なりの洒落た「スタイル」を保持する都会的な若者の範例となり、多くの読者を魅了してきた。しかし、(『羊をめぐる冒険』以後明確になっていく)村上の本領は、世界の輪郭を自分の輪郭に重ねようとすること、前稿の表現を借りれば、<「世界」=「僕の世界」>という等式を成立させようとすることがもたらす快楽だけでなく、それに必然的に伴う悲哀や窮状(これを端的に表すのが先の「妹による批難の言葉」であり、この種の言葉と共に去っていく彼女や妻たちの姿である)を同時に描くことにある。この二つの局面の間で苦闘する「僕」の姿を通じて、読者に伝えられるある種の切実さ(「心の震え」)こそが、村上作品が提示する「倫理」の中核にある。


2.意味論的独我論


 少し結論を急ぎすぎたようだ。以下では、まず村上の小説において<「世界」=「僕の世界」>という等式を成立させる具体的な方法論となっているものについて分析したい。その方法論が、ここで「意味論的独我論」と呼ぶものである。哲学における認識論的な意味での独我論とは「私に見えるものだけが真に見えるものである」という形をとる。もちろん他人に何かが見えていることは否定できないが、他人が見ているものを私が見たとしても、そこで「真に見えるもの」はあくまで「私に見えるもの」でしかないという考え方である(ただし、独我論の本分はこの見解を契機にして、そのように言える「私」とは一体何なのか、を問うことにあるのだが)。


こうした認識論的独我論に対して、ここで「意味論的独我論」と呼ぶものは、「この世界の私にとっての意味が、この世界の真なる意味である」という形をとる。前回のエントリーでも、村上作品においては「『僕』にとって関係のないものは、『僕』の『世界』の中では無意味になってしまう」と指摘されている。ただし、ここで注意してもらいたいのは、この評価は、「村上作品には個人にとってのみ有意味な恋愛や個人的悩みといった卑近な出来事しか書かれておらず、その世界は近視眼的で社会に目を向けることができない閉塞した現代の若者の姿を反映するものである」といった評価とは全く異なるということだ。以前のエントリー(「いったん世界を閉じるために」http://d.hatena.ne.jp/kyudou/20081214/1231330702)で詳述したように、村上の文章は、「自分にとって意味のある世界だけを描く(「閉じた世界を描く」)」ものではなく、「世界を自分にとって意味あるものへと変換していく運動(「世界を閉じる」)」を描くことを志向している。そこで追及されるのは、「いかにして世界を自分にとって有意味なものとすることができるか」という問いであり、この問いを追及することが前述した「倫理的個人主義」の具体的な展開として現れる。そこでは、この世界を「自分の言葉で誠実に語ろうとする」ことはいかにして可能か、それを通じて何が獲得され何が失われるのか、そこで失われるものに対していかに対峙しうるのか、といった問いが浮上してくるのである。


いくぶん抽象的な議論が先行したが、村上作品において「意味論的独我論」が現れるのは、まず何よりも具体的な記述の方法論においてである。例を示そう。

僕がドアを開けると、男が二人立っていた。一人は40代半ばに、もう一人は僕と同じくらいの歳格好に見えた。年上の方が背が高く、鼻に傷あとがあった。まだ春の始めだというのによく日焼けしていた。漁師のような現実的な日焼けだった。グアムのビーチとか、スキー場で焼いたわけではない。[…]若い方は背が高く、髪が長めだった。目が細く、鋭かった。一昔前の文学青年みたいに見えた。同人誌の集まりで額の髪をかきあげて「やはり三島だよ」と言ったりしそうな雰囲気がある。昔、大学のクラスにも何人かこういうのがいた。
[…]
「漁師」と「文学」と僕はとりあえず名前をつけた。
 文学がコートのポケットから警察手帳を出して何も言わずに僕に見せた。
映画みたい、と僕は思った。僕はそれまで警察手帳なんて見たこともなかったけれど、一見してそれは本物であるように感じられた。くたびれかたが革靴のくたびれかたによく似ていたからだ。でも彼がコートのポケットから出してさしだすと、なんだか同人誌を売りつけられているような気がした。
 「赤坂署のものです」と文学が言った。
(『ダンス・ダンス・ダンス(上)』:p332-333)


ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)

ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)


 「僕」の親友「五反田君」の殺人容疑をめぐって主人公を付きまわす二人の刑事が初めて登場するこのシーンの描写は、奇妙に鮮やかな感覚を読み手に与える。それは、「刑事」という「若者の卑近な生活圏」の外部にあるはずの公的な存在を、にもかかわらず、「僕の世界」の一部に組み込んでいく村上独特の描写法によって実現されている。この描写の独自性は、たとえば次のような一般的に見られる描写と比較するとより明確になるだろう。

その時、ドアが妙に威嚇的な感じでノックされた。今までに私が聞いたどんなノックとも、明らかに違う音だった。そしてこっちの返事を待たず、ほとんど荒々しいやり方でもってドアが開かれ、非常に地味な背広を着た恰幅のいい四十がらみの大男が立っていた。
 御手洗さんてのはあんたかね?と彼は私に向って言った。
 私は多少どぎまきして、いえ違いますと応えた。彼はそれなら残りの方だと判断したらしく、御手洗の方へ向き直ると、内ポケットから、まるで成り上がりの実業家が札束をちらりと見せるようなやり方で黒っぽい手帳をみせ、竹腰だがね、と低い声で言った。
島田荘司占星術殺人事件』P233)


占星術殺人事件 (講談社文庫)

占星術殺人事件 (講談社文庫)


 この二つの文章はともに主人公に敵対的な刑事が初めて登場するシーンを描くものだが、刑事をどう描写するかという点で大きく異なるものとなっている。島田が、「竹腰刑事」の動作や彼の動作に対する比喩的な表現(「まるで成り上がりの実業家が…」)によって彼がどのような人物であるかを描いていくのに対して、村上は二人の刑事が「僕」の視点からみてどのような人物であるかを描いていく。彼らは、「漁師のような現実的な日焼けだった」とか「同人誌の集まりで額の髪をかきあげて『やはり三島だよ』と言ったりしそう」といった「僕」の個人的な印象やプライヴェートな記憶に基づいた描写を施されることで、公的な刻印を解除され、「僕の世界」のうちに取り込まれていく。つまり、世界内の事物=<二人の刑事>が、「僕」にとってそれらが意味するもの=<「漁師」と「文学」>に変換されているのである(注)。


注:以前のエントリー(「いったん世界を閉じるために」いったん世界を閉じるために - トレモロ・ヴィンテージの批評公園)で検討した、「羊をめぐる冒険」における三島事件の描写にも、同様の操作が見られる。


もう一つ重要なことは、彼らは「僕」によって「文学」と「漁師」というあだ名をつけられ、これ以降も彼らの本名は示されず常にあだ名で呼ばれる、ということである。あだ名とは、名づけを行った人物を含む狭いサークルの内部においてのみ通用する名である。個々人をあだなで呼ぶことには、彼らを公的な存在ではなく、プライヴェートな親密性を伴う存在として位置づける効果がある(初期村上作品において重要な役割を果たすキャラクターの名前「鼠」も、大学時代のあだ名であり、彼の本名は最後まであかされない)。
もし、上記の村上の文章に見られる「あだ名の名付け」を消去して一般的な人物名を彼らに与え、たとえば、「『竹腰』と『南田』と彼らは名乗った。竹腰刑事はコートのポケットから警察手帳を出して何も言わずに僕に見せた。」という文を上記の文章の太字で示した部分に挿入したとすれば、このシーンの印象は大きく歪んでしまうだろう。


 ここで実現されているのは、「ある言葉」と「その言葉が意味/指示するもの」とがつねに「僕」を介して関係づけられているという事態である。「漁師」と「文学」という言葉は、そうあだ名をつけた「僕」にとってのみ、二人の刑事を指す。そして、作者である村上は彼らを以後もこのあだ名でのみ表記する。こうして、作品世界は「僕の世界」と一致するものとなるのである。


こうした事態は、あだ名だけでなく、とりわけ初期の村上作品における呼称に共通してみられる。そこでは、主人公と親しい関係をもつ人物たちのほとんどが本名を明らかにされず、「彼女」「妻」「離婚した妻」「仕事の相棒」「事務所の女の子」「妹」「妹の婚約者」、といった主人公との関係を表す言葉によってのみ示される。これらの一般名詞は、いずれも本来は頭に付く「僕の…」という語を省略したものであり、それらが特定の人物を指すのは「僕」を介する限りにおいてのみである(これらの表現は、発話主体において構成される文脈においてのみ発話の意味がきまるという特徴を持つ言語学で言う直示語=deixisの一種である)。日常生活において私達が「(僕の)別れた彼女」や「(私の)彼氏」や「(僕の)奥さん」や「(私の)父」という言葉を発するとき、それらの言葉は――固有名詞ではなく一般名詞であるにもかかわらず――自分にとってかけがえのない唯一性をもった人物を指す。この唯一性は、よく言われる「固有名の単独性」とは明らかに異なる形で実現されるものであり、認識論的独我論の始点となる「『この私』だけが唯一存在する真なる『私』である」という直観(注)から導出されるものである。つまり、「この私」の唯一性を根拠として「『この私』の彼女(/妻/相棒/父/etc)」の唯一性が樹立されるのである。


注:この直観について永井均は次のように述べている。
「『私にみえるものだけが真に見えるものである』という主張は、私に見えないもの(つまり意識の外)との対比で語られた主張ではなく、他人に見えるものとの対比で語られた主張であり、そのうえ、他人に見えるものもまた、ふつうの意味では見えるものであるこが、当然のこととして認められている[…]問題はただもっぱら、そういうふつうの意味でものをみているといえる無数の意識主体のうち、今ここでほんとうにものを見ているこの私をどう区別できるか、という一点に集中している。[…]問題は一般的に想定できるそういう自我たちのうちの一つが、他の自我たちとはまったく違ったあり方をしたこの私である、という点にあるのだ。だから問題の「私」は、あくまでも今ここにいるこの私ただ一人を意味しているのである」
永井均ウィトゲンシュタイン入門』:p21-22)。
 誰もが「私」と言うことができるが、その中でただ一つ「この私」だけが唯一特別な存在である。この独我論的直観は、無数の人間が「妹」や「妻」と呼ばれうるが、その中で「この私の妹」、「この私の妻」だけが唯一特別な存在である、という状況と構造的に同型である。
 ちなみに、いま考えると、独我論の闇を執拗に掘り進める本書や『<子供>のための哲学』における永井の議論が多くの一般読者を獲得したのは、上で述べた倫理的個人主義あるいは「倫理的独我論」とでも呼ぶべきものと関係する個々人の欲望と、彼の議論がある種の共犯関係を持ちえたからだったようにも思える。



<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス


 もちろん、村上作品には「あだ名」や「『僕』との関係を表す名詞」以外の名を持つ重要な人物もいる。ただし、それらの人物の呼称にもまた「僕」のプライヴェートネスが強く刻印されている。例えば、『ダンス・ダンス・ダンス』において忘れ難い感触を残す「五反田君」は、主人公の高校時代の同級生で現在は端正なマスクをした人気俳優であり、「五反田」は彼の本名である。しかし、彼の芸名もフルネームも最後まで明かされることはなく、「五反田君」という「僕」の高校時代の記憶と強く結びついた名前で呼ばれ続ける。あるいは、『羊をめぐる冒険』に登場する「高級娼婦と耳のモデルをしていた女の子」は、なによりも「非現実的なまでに美しい耳をもつ女の子」として描かれ、彼女がその美しい耳を見せるのはただ「僕」に対してのみである。


 プライヴェートネスの刻印を押されるのは、人物だけではない。例えば、『1973年のピンボール』(p18)では、1960年が「ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年」だとさりげなく、いくぶん唐突に断言される。

 家の設計者でもあった最初の住人は年老いた洋画家だったが、彼は直子が越してくる前の冬、肺をこじらせて死んだ。一九六○年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。いやに雨が多い冬だった。

「ボビー・ヴィー」だけでなく、「ハロー・メリー・ルー」や「リッキー・ネルソン」といった、読者すべてにとって馴染みがあるとは言えない固有名が、とりわけ初期村上作品においては説明もなく頻繁に登場する。ただし、これらの言葉は固有名ではあるが、「僕」の過去ないし青春の記憶と強く結びついている。「1960年」が「ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年」を意味するのは、あくまで「僕」、あるいは「僕ら」を介してなのである。このことは、上記の文章を次のように置き換えるとよくわかる。「僕(ら)にとって1960年は「ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年なんだよ」。この文章には特に違和感を感じることはない。村上は、この文章から「僕(ら)にとって」を抜いてしまうことで(注)、あたかもそこでは「1960年」が「ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を歌った年」以外のものを意味しえないような世界を創出する。そして、この世界は「世界の輪郭がそのまま自分の輪郭に重なる」ような世界に他ならない。「1960年」という、客観的な歴史の一地点を指し示すものでしかないような言葉に対してまで果敢に「僕」のプライヴェートネス(=「『この私』の唯一性」)を刻印していくこと、その洗練された手際において村上は、世界を「僕」のうちに取り込んでいくのである。


注:これと同じ操作が、前述した「僕」との関係を示す名においてのみ登場人物が指示されるという際にもなされている。つまり、「彼女」や「別れた妻」は決して「僕の彼女」とか「僕の別れた妻」とは呼ばれないのである。何故なら「僕の」という言葉をつけてしまえば、それらの人物が「僕にとっては彼女だが、他の人間にとっては別の存在でありうる」という含意、「僕の世界」がより上位の(公的な)世界に包含されているという含意が生まれてしまうからである。このように、作品世界が「僕にとっての世界」であることの痕跡を巧妙に消し去る作業を徹底して行うことによって、村上の文章は普遍的な形式性を獲得しているのであり、だからこそ彼の文章は後述する村上読者の語りとは根本的に異なるものとなっている。



重要なのは、ここで言う「僕」は、「村上春樹」という個人や彼と世代を共有する個々人を意味するわけではないということである。たしかに、「ボビー・ヴィー」や「ハロー・メリー・ルー」といった固有名は、特定の世代の人間にとって、「あー、あのボビー・ヴィーね」(この言い方に伴う感触は、仲間内のみで通用する呼称を用いるときの感触と同質である。「あー、あの『誰とでも寝る女の子』ね、いたねー、そんな子」)といったプライヴェートな記憶に基づく唯一性を喚起する言葉である。つまり、一面においてこれらの固有名の濫用は、特定の個人および特定の世代の人々=「僕ら」の視点から世界を切り取っていく効果を持っており、「小説と読者の間に特定の時空と結びついた濃密な関係を作り上げるための仕掛け」(http://blogs.yahoo.co.jp/nonakajun/5695500.html)という側面も持っている(注)。
 しかしながら、これらの固有名を用いた表現は、作者と時空を共有しておらず、「ボビー・ヴィー」も「ハロー・メリー・ルー」も知らない世代の読者に対してもある種の魅力を発揮する。彼ら読み手がそこで感受するのは、「ボビー・ヴィー」や「ハロー・メリー・ルー」という固有名に結びついた特定のプライヴェートネスに彩られた世界のノスタルジックな快楽ではなく、世界が特定のプライヴェートネスのうちに取り込まれていくという運動自体の快楽なのである。村上が描くのは、自分にとって唯一性を帯びた事物(自分にとって有意味なもの)によって世界が埋め尽くされていく運動であり、その内容(何が自己にとって唯一性を持つ事物であり、それらがどのような意味をもつか)よりも、その形式(世界内の事物がいかに自己にとって有意味なもので埋め尽くされていくか)の洗練こそが、幅広い読者を惹きつけてきた要因なのである。


注:ここで引用させていただいたブログ記事(学術誌に発表した論文からの抜粋だと紹介されている)で主張されているのは、
「ボビー・ヴィー」や「ハロー・メリー・ルー」といった言葉の使用が、
「一九六○年代初頭にアメリカンポップスを聴いていた人々にとっては、何か深いところで感情を揺さぶるような濃密な関係性を、小説と自分との間に生み出す仕掛けになっている」(同記事から引用)
ということである。
 本稿はこの主張を否定するものではない。村上作品は確かにそのように読まれることもできるし、実際に一部の読者によってそう読まれてきた可能性は否定できない。だが、本稿で強調したいのは、これらの言葉は、特定の人々や世代という文脈においてそれらが持つ「内容」から切り離されたとしても、その「形式」において有意性を持ちうるのであり、それこそが村上春樹が幅広い読者を獲得してきた要因である、ということだ。世界内の事物を自己にとって有意味な事物に変換する、その運動の「形式」を(その運動に内在する矛盾を捨象せずに)追及したところに村上作品のより普遍的な意義がある。


例えば、村上作品に感動し思わず自分の日常を「村上風」に描いてみたくなる人々は、「ボビー・ヴィー」や「ハロー・メリー・ルー」の代わりに自分(たち)にとって有意味な固有名を用いることができる。つまり個々人にとって異なる「内容」を用いながら、世界を自己に取り込むという「形式」を再現することを彼らは(それを意識しないまま)目指すのであり、この作用はそもそも村上作品を読む際に発揮されているものである。つまり、読者は、村上作品において特定の世代的背景や性格や趣味趣向を持つ「僕」のうちに世界が取り込まれていく運動の「形式」を感受し、その同じ「形式」によって自己の経験を再編するように誘われる。彼らは、村上の「僕」とは異なる世代的背景や性格や嗜好を持つ自分自身においても、自らにとって唯一性をもつ事物によって世界が埋め尽くされていくことの可能性を見出し、その擬似的な実現として村上作品における「僕」の物語を感受することになるのである。
 どうもわかりにくい表現になっている気がするので、例を出しながら簡単に述べよう。前述した「1960年は、ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年だ」という村上の文章は、ある読者にとっては「僕らにとって1960年は、ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年だ」という「内容」を意味しうるが、別の読者にとっては「俺らにとって1997年はフジロックレッチリが唄った年だ」という「内容」を意味しうる。なぜなら、両者はともにその「形式」において「1960年は、ボビー・ヴィーが『ラバー・ボール』を唄った年だ」という村上の文章と同型だからである。だが、この三つの文章において、任意の「内容」を含意しうる形式性を直接的に提示しえているのは、村上の文章だけである。だからこそ、読者は「俺らにとって1997年はフジロックレッチリが唄った年だ」という発話の意味作用(世界が自己の視点から編成されていくことの快楽)と同質の快感を――その意味作用を形式的に普遍化した――村上の文章から感受しうるのである(注)。


注:ここで述べていることは、前回のエントリーの「読者は、第一に否定されるのではなく、春樹的な「僕の世界」の一部として含まれる」で始まる段落に書かれている内容とほぼ同じことを言おうとしているように思われる。ただし、どちらの文章もやや舌足らずで説明しきれてない印象をうける。舞城における「俺」と読者の関係との比較を考えても、今後精緻化していくことが大事かもしれない。


さて、ここからが本稿においてもっとも重要なポイントとなる。村上春樹は、世界を自己のうちに取り込んでいこうとする「僕」の軌跡を描くが、作中においてそれを成功させることはない。「世界=僕の世界」という等式は常に志向されるものの絶対に完成しない。世界には「僕」によって埋め尽くすことのできない残余が残り続けるという強烈な直観が村上にはある。しかし、その残余は――「世界」=作品世界が常に「僕」の視点から見られたものでしかないために――「世界」の内には存在しえない。村上の本領は、存在しえないはずの残余を、感知しえないはずの欠如を、非常にトリッキーな仕方で「僕の世界」に埋め込んでいくことにある。それこそが、本稿において「不在としての他者」と呼ぶものである。


3. 不在の他者


 前述したように、村上の作品世界を駆動する意味論的独我論は、「この世界の私にとっての意味が、この世界の真なる意味である」という形をとる。そこにおいて、世界はもっぱら「この私」を介して意味づけられる。しかし、この時、あらゆる他者は原理的には存在しえないものとなってしまう。というのも、他者とは「この私」とは異なるかたちで世界を意味づける起点となる存在であり、この性質を失えばもはやそれらは他者ではなく、単なるモノにかぎりなく近づいてしまうからである。つまり、意味論的独我論に立つ限り、世界を他者と共有することは極めて難しい。では、村上作品において他者はいかに現れうるのだろうか。それを端的に示しているのが、初期三部作に連なる長編『ダンス・ダンス・ダンス』前半における次のくだりである。

僕は平均的な人間だとは言えないかもしれないが、でも変った人間ではない。僕は僕なりにしごくまともな人間なのだ。とてもストレートだ。矢のごとくストレートだ。僕は僕としてごく必然的に、ごく自然に存在している。それはもう自明の事実なので、他人が僕という存在をどう捉えたとしても僕はそれほど気にしない。他人が僕をどのように見なそうと、それは僕には関係のない問題だった。それは僕の問題というよりはむしろ彼らの問題なのだ。
[…中略…]しかしそれとは別に、その一方で、僕の中のそのまともさに引かれる人間がいる。とても数少なくではあるけれど、でも確かに存在する。[…]彼らは僕の友人になり、恋人となり、妻にもなる。ある場合には対立する存在にもなる。でもいずれにせよ、みんな僕のもとを去っていく。彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。僕の部屋には二つドアがついている。一つが入り口で、一つが出口だ。互換性はない。入り口からは出られないし、出口からは入れない。それは決まっているのだ。人々は入口から入ってきて、出口から出ていく。いろんな入り方があり、いろんな出方がある。しかし、いずれにせよ、みんな出ていく。あるものは新しい可能性を試すために出ていったし、あるものは時間を節約するために出ていった。あるものは死んだ。残った人間は一人もいない。部屋の中には誰もいない。僕がいるだけだ。そして僕は彼らの不在をいつも認識している。去って行った人々のことを。彼らの口にした言葉や、彼らの息づかいや、彼らの口ずさんだ唄が、部屋のあちこちの隅に塵のように漂っているのが見える。 (『ダンス・ダンス・ダンス(上)』p26-27)


この一節に表れているように、主人公「僕」の造形は次のような特徴を持つ。


①:「僕」は、自分にとって妥当だと感じられる価値や規範に忠実であり(「僕は僕なりにまとも」)、他人がこの世界の事物とりわけ自分をどう見ているかについては殆ど関心を示さない。

 
②:「僕」が強固に作り上げた世界=「僕の部屋」を心地よく感じる人間、あるいは、そこに強い魅力や反発を感じる人間が時折現れて、彼らと親しい関係を結ぶ(親友、彼女、妻、対立者)。そして、彼らは「僕」を、他の人間とは異なる特別な存在としてみなす
(Ex. 『羊をめぐる冒険』に登場する女の子は、その「魔術的なまでに完璧な形をした耳」を主人公にだけ見せる)。


③:両者の親しい関係は暫定的なものでしかなく、彼らは常に(死や離別を通じて)去っていく。そして、彼らが「いない」ということを、「僕」は常に感じている。


 以上の特徴は、主人公の人物像だけでなく、作品世界全体の造形を支えている。①「僕」が他人から自分がどう見えているかに殆ど無関心であるのは、作品世界を「僕の世界」(上で自己言及的に言われている「僕の部屋」に対応する)として描きだす上で必須の条件である。というのも、もし「僕」が、他人からみた自己像を常に気にしているような人物であれば、世界を意味づける審級が自己と他者(ないし世間一般)の間を動揺し続けてしまうからだ。②「僕の世界」に共感する・魅了される人物が「僕」の前に現れる、それによって作品世界は広がりを持つ。もし彼らが全く登場しなければ、主人公が自己満足し続ける閉じた日常を描くことしかできない。同時に、「僕」と彼らの関係を通じてある種の純粋さをもった親密な空間が描かれる。「僕の世界」とは、自分にとって有意味なものによって埋め尽くされた世界であるから、そこに留まる<自己=「僕」>と<親しい他者=「きみ」>は、自分たちにとって意味のあるもの以外は綺麗に排除された純粋な関係を結ぶ。③だが、親しい他者は常に暫定的にしか「僕の世界」に留まることができず、彼らはのちに去っていくか、すでに去っている。前節で述べたように、村上作品においては、作品世界自体が<世界=僕の世界>となるように構築されている。このため、僕から去っていく他者は作品世界からいわば物理的に消え去ることになり、彼らの不在は<世界=僕の世界>に穿たれた見えない孔のようなものとして存在することになる。


上で、「去っていく他者は作品世界から物理的に消え去る」と表現した事態は、たとえば、
羊をめぐる冒険』前半において離婚が決まった妻が家を出て行った直後の僕の様子が描かれる次のシーンの描写において如実に現れている。

僕は寝室の彼女の引き出しを順番に開けてみたが、どれもからっぽだった。虫の食った古いマフラーが一枚とハンガーが三本、防虫剤の包み、残っているのはそれだけだった。彼女はきれいさっぱり何もかも持っていってしまったのだ。
[…中略…]
アルバムを開いてみると彼女が写っている写真は一枚残らずはぎ取られていた。僕と彼女が一緒に写ったものは、彼女の部分だけがきちんと切り取られ、あとには僕だけが残されていた。僕一人が写っている写真と風景や動物を撮った写真はそのままだった。そんな三冊のアルバムに収められているのは完璧に修正された過去だった。僕はいつも一人ぼっちで。そのあいだに山や川や鹿や猫の写真があった。まるで生まれた時も一人で、ずっと一人ぼっちで、これから先も一人というような気がした。僕はアルバムを閉じ、煙草を二本吸った。


 妻の写真のみはぎ取られたアルバムは、妻の不在を表すものとして存在している。ここには、「ない」ことが「ある」のだ。「世界=僕の世界」において、他者は暫定的にしか存在しえない(「人々は入口から入ってきて、出口から出ていく」。「僕」にとって彼らは、これから去りゆくもの、すでに去ったものでしかありえない。僕は強固かつ広範に作り上げた「僕の世界」=「僕の部屋」のなかで「ひとりぼっち」になってしまう。しかし、だからこそ「僕」は、もはや存在しないはずの彼らが送ってよこす弱々しい声に耳をすます。その声は、「世界=僕の世界」に埋め込まれた、彼らがかつてそこに存在したことをあらわす無数の小さな痕跡から微かに聞こえてくる。つまり、「世界=僕の世界」において、他者は不在として存在する。換言すれば、「いない」ものとして「いる」。こうした存在様態の特権的なモデルとなるのが生者にとっての死者の有様である。死んだ者はすでに存在しないが、彼らの記憶は残された者のうちにいまだ存在する。実際、村上の物語は、回想や夢に現れる死者(『羊をめぐる冒険』序盤で回想される「誰とでも寝る女の子」、や『ダンス・ダンス・ダンス』後半で「僕」の夢の中に現れる「キキ」)や、現実に現れる死者=幽霊(『羊をめぐる冒険』の「鼠」)で溢れている。こうした存在の有様は、明確に死んだとされている者だけではなく、村上作品において重要な役割を果たす登場人物の多くに刻印されている。例えば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の「世界の終り」パートに登場する「図書館の女の子」は自らの心を喪失しているし、『1973年のピンボール』に登場する鼠(この時点ではまだ死んでいない)は、時の流れを「まるでどこかでプツンと断ち切られてしまった」かのように感じている。「いながらにしていない」状態にあるこれらの人物たちもまた、不在として存在している。


以上のように、村上作品における他者は「不在の他者」として現れる。この、「いない」ものとして「いる」という他者の存在形態によって、世界を「僕」のうちに取り込んでいく運動は実現すると同時に実現しない。「世界=僕の世界」は、閉じた綺麗な円を描いていると同時に、そこには無数の薄く透明な穴が穿たれているのであり、それらの穴によって、「僕」が「世界=僕の世界」に安住することは、常にあらかじめ不可能なものとなっているのである。ここに、倫理的個人主義を意味論的独我論に拠って展開したときの悲劇が現れる。「自分の言葉で誠実に」語りながら生きていこうとすることによって、人は、世界を自己のうちに取り込んでいく快楽を享受するとともに、――自己のうちに取り込むことのできない世界の残余としての――他者と関係をとり結ぶことの原理的な困難という代償を払わなければならなくなるのである。作家としての村上春樹の力量は、この相矛盾する二つの局面のどちらかを捨象することなしに両者をギリギリの緊張感において併置し、それによって読者をより深い問いへと誘うことにある。


だが、ここにはネガティブな側面だけがあるのではない。第一に、他者を自己の世界のうちに取り込むことのできない存在として位置づけることは、他者を「自分にとって彼ら・彼女らがそう見えるもの」にすり替えることを強く否定することでもある。逆説的な形においてではあるが、村上の「僕」は他者のより本当の姿へと至ろうとする志向を強く持っている。僕の「スタイリッシュ」な内閉とそれに伴う他者の「不在」が際立たされるほど、そこに至ろうと苦闘する「僕」の思いの切実さ・誠実さが際立っていくのである。一つの作品全体が持つこうした構造の中に置かれることによって、次のような、単体では通俗的にも思われる文章が、読者の感情の根っこの部分に深くしみこむ言葉となっていく。

「ひとりの人間が、他のひとりの人間について十全に理解するというのは果たして可能なことなのだろうか。つまり誰かのことを知ろうと長い時間をかけて真剣に努力をかさねて、その結果我々はその相手の本質にどの程度まで近づくことができるのだろうか。我々は我々がよく知っていると思い込んでいる相手について、本当に何か大事なことを知っているのだろうか」
(『ねじまき鳥クロニクル第一部』p47:「僕」の妻が失踪する際の描写)

僕が孤独であること――これは真実だった。僕は誰とも結びついていない。それが僕の問題なのだ。僕は僕を取り戻しつつある。でも僕は誰とも結びついていない。
 この前誰かを真剣に愛したのはいつのことだったろう?
 ずっと昔だ。いつかの氷河期といつかの氷河期との間。とにかくずっと昔だ。歴史的過去。ジュラ紀とか、そういう種類の過去だ。そしてみんな消えてしまった。
(『ダンス・ダンス・ダンス(上)』p60

第二に、自己の世界において「不在として存在するもの」として他者を位置づけることによって、自分の視点からみた他者の像に固執する選択肢だけでなく、他者を接触不可能なものとして捨象する選択肢も否定されることになり、そのうえで、原理的に困難な他者との関係をそれでも追及することはいかにして可能かを問うことができるようになる。


村上作品の軌跡において、「不在としての他者」のいくつかは主人公「僕」と精神的かつ恒常的な関係をとり結ぶ異界の存在へと変化していく。その典型例が、初期三部作の最後『羊をめぐる冒険』において「鼠」と入れ違いに登場する「羊男」であり、続編『ダンス・ダンス・ダンス』において「耳のモデルの女の子」が殺された後に別の名前で主人公の白昼夢に現れる「キキ」である。前者は、主人公が混乱しあらゆる結びつきを解いてしまったと述べ、「あんたが結びついている場所はここ(=いるかホテル)だけ」であり、「あんたが求め、手に入れたもの」を「配電盤」みたいに繋げるのが「おいらの役目」だと主人公に告げる。後者は「あなたが涙を流せないもののために私たちが涙を流し、あなたが声をあげることのできないもののために私たちが声を上げて泣くの」だと主人公に語る。この場面でキキが「私はあなたの影にすぎないの」と付け加えているように、彼らは主人公の分身であり、主人公の一部である。ただし、その一部は――「あなたが涙を流せないもののために」という一節が示しているように――主人公がきちんと認識できていない、きちんと受け入れることのできない自らの姿(「僕の世界」に「不在として存在する」自己)である。そして同時に、異界の住人である彼らは「鼠」や「耳のモデルの女の子」といった主人公が現実に失った他者と結びつき、「ユキ」や「五反田君」といった現実に存在する他者とも結びついている(「不在の他者」と「不在の自己」は、「僕の世界」において認識されえないまま存在するという点で同質の存在であり、その限りにおいて両者が接続する可能性が生まれる。「羊男」や「キキ」はこの可能性を具現化する存在者である)。


つまり、彼ら(および彼らの住処である「いるかホテル」や「6体の白骨死体が置かれたホノルルの死の部屋」)は、「不在の他者」と「僕」がそれでも実際には関係している/関係しうるのだという事実が、意味論的独我論によって構成された世界(=「僕の世界」)になかば強引に組み込まれたことで生じた存在である。このため、彼らは非現実的な存在、異界の住人として現れるのである。こうした虚構内世界の階層化(注)を通じて、村上は、倫理的個人主義が孕む「自己」と「他者」の矛盾、両者の原理的な並立不可能性を前提にしたうえでなお、人は他者といかに関係を結ぶことができるかという問いを「誠実に」(この誠実さを肯定すべきかどうかはここでは問わない)追及していく。さらに、彼の試みは、自己と他者との関係が根源的な暴力性を含むことへの強い自覚を経て、より深化していく。(それを如実に現わしているのが、『ねじまき鳥クロニクル』において行方不明となった妻と主人公を媒介する存在、綿谷ノボルである。彼は、「羊男」や「ユキ」と同じく、「僕の世界」とその外部の中間にありながら、彼と「僕」は激しく対立し、暴力をふるいあう。だたし、その暴力が非現実的なものでしかないという点で、独我論的意味論という前提は放棄されているわけではない。これはおそらく『海辺のカフカ』にも言えることである)。


注:『ダンス・ダンス・ダンス』終盤、夢に現れたキキは「いるかホテル」も「ホノルルの死の部屋」も、「あなたの部屋」だと「僕」に語る。つまり、先に引用した「僕の部屋」=「僕の世界」はこのとき多重化しているのである。こうした「僕の世界」の多重化は、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』における「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」という二つの世界において物語が二重に進行する事態や、『ねじまき鳥クロニクル』における隠された自己と出会う場所であり異世界と交渉する場所としての「井戸」に潜る、という局面にも見られるものである。


 ずいぶんと長大な文章になってしまった。ここまで考察してきたことに比べれば、明らかに単純化しすぎてはいるが、キーワードを並べる形で本稿をまとめると次のようになるだろうか。村上春樹は、倫理的個人主義を基調としたうえで、世界を自己のうちに囲い込むこと(=「意味論的独我論」)における快楽とそれがもたらす悲惨(=他者の不在と自己への閉塞)のどちらも捨象せずに、極限的な緊張状態において両者を均等に配置する。そこにおいて、「自己が他者とともにこの世界を共有/肯定することはいかにして可能か」という困難な問いが繰り返し追及され、「不在の他者と連帯する」ことへの誠実で切実な希求の軌跡が描き出されていく。


 とりあえず、ここで終わりにする。考えがまとまっておらず、どうにも言葉足らずだと思えるところ、細部に固執して全体像が上手く掴めてないように思えるところも多い。何より、村上春樹の全体像、彼の軌跡を体系的に追うという考察にはなっておらず、関連しそうと思われるところを乱暴につなげた文章になってしまっている。ただ、本稿の目的はあくまで村上と舞城を比較する土台をより広く・深く作るということであり、今回はこれでよしとしたい。


村上春樹についての分析としては、色々と考えるべきポイントを提示できたようにも思う。もちろん、言いすぎているところ、間違っているところも多々ありそうだが、とりあえず後続世代として村上春樹の作品が徴しづけ・相対化し・拡張してきた個人間や世界観そして倫理に対して同意と拒否を適切に配置する作業を行うために、有効な叩き台としてこの文章がいずれ役にたってくれれば良いと思う。


次にいつ書けるかは不明だが、とりあえずこの続きは『ディスコ探偵』を中心にしながら、舞城王太郎を、1出発点としての倫理的個人主義、2意味論的独我論の崩壊→意味論的多我論の登場、3暴力としての他者→関係の暴力性の全面化→暴力性としての「社会」の再発見、という三つの契機を中心にして考えてみたい。


<終り>

舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』について

「世界の終り」から「終わらない世界」へ

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉


以下前置きですのでお急ぎの方はお先にどうぞ

 ある種の文章が文学であるか否かの瀬戸際に何があるのかということについて、前から思っていたのだが、その違いは、ある種の「倫理」がその文章にあるか否かということなのではないだろうか。しかしここでいう「倫理」というのは、道徳とか常識とかそういったものではない。ここで言う「倫理」とは、「当為と快楽と欲望の三項関係を説明するある種の機械的カニズム」のことである。「当為」とは「〜すべし」ということであり、「快楽」とは、ある種の「エクソダス(解脱)」あるいは「エクセ(過剰)」のことである。古典的な意味では「幸福」に近いが、現代的な意味での「幸福」というのとは違う。現代的な意味での「幸福」というのは日常生活と切り離せないが、古典的な意味での「幸福」とは「神の祝福」あるいは「神との合一」によってこそ得られるある種の非日常を含意・前提している。「欲望」とは、快楽の欠如が当為を介して主体(従属者)を駆り立てる装置であり、それと同時にこの当為を裏切らせ、当為を脱臼させることをも可能にする装置である。したがって、ここでいう意味での「倫理」とは、この盲目の「欲望」を「快楽」へと導くための「当為」へと至るための「知」である。そして、文学に「倫理」があるというのは、その文章が、そのような「知」を内に含んでいるということだ。「内に含む」とは、つまりそのような「知」へと導くための論証や教説を明示的な仕方で解くのではなく(そのような文章はもはや文学とは呼ばない)、文章の構成(言説の形成)の方法や規則そのものが、その「知」によって支配されていることによって、非明示的な仕方で読者に対してある特定の印象を与えることになる場合を表している。勘違いしてはならないのは、この「倫理」には普通の意味での「良い」とは関係がないということである。つまり「価値判断」とは直接の結びつきがない。例えばそれは、人殺しの描写も場合によっては「倫理的」になりうる、ということを意味している。

 前置きが長くなった。今日は、ここでいう意味での舞城的な倫理についてしゃべってみたい。舞城の文章について評価すべきところは、この「倫理」の更新にある、と僕は言いたい。何からの更新かと言えば、それは「世界の終り」的な倫理からのである。「世界の終り」的な倫理とは、つまり、7−80年代的(大衆化するのは80年代という印象があるが)的な倫理であり、その先鋭としてあげられるべきものはやはり村上春樹の文章だろうと思う。ところで、「世界の終り」の倫理と、90年代末と00年初期においていわゆるロストジェネレーション世代を席巻した「世界系」的な思想(個人的には倫理と呼びたくない)との関係は、多少歴史的にもややこしいので今回は省く。


 「世界の終り」の倫理とは、単純化して述べれば、社会的なものから内向きに閉じた個人主義的で消費主義的な色彩を強くもつ倫理である。そこで問題になるのは、セックスであり、それによって得られるはずの快楽であり、食事でありそれによって得られるはずの快楽であり、音楽や芸術でありそれによって得られるはずの快楽である。そこで問題になる快楽は、基本的に個人的なものであるだろう。こう書くと大変身も蓋もないので、そんなものが文学になりえるはずもないとも思われるが、この「個人的」というファクターのパラメータの設定次第によっては、可能である。


 たとえば、村上春樹の文章の中でいつまでも僕の記憶から消えない情景は、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の中で、(ハードボイルドのほうの世界で博士の娘として出る)「少し太めの女の子」に案内されながら博士の研究所を歩くときに、主人公が見る女の子との後ろ姿である。ちなみにこの女のことはあとでセックスをすることになる。あと、どの文章だったか定かではない(たぶん初期の作品だと思う)が、海岸線を車で走っていく場面で流れているジャズの情景がある。そして、『ノルウェーの森』で、女の子とセックスをするときにかかっている「ノルウェーの森」のレコード。あと同じても忘れられないのが、『羊』シリーズの「胡瓜」を食べる場面と、たぶん別の作品で「サンドウィッチ」を作る場面。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

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ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 これらは日常のありふれたシーンにすぎないものなのだけれど、村上春樹の作品の中に登場すると、これこそが世界の存在価値そのものであるかのように見える。つまり「個人的な快楽」にすぎないものが「世界の存在理由」にまで上昇しているように思えるのである。


 それはなぜなのか。それは彼の文章の書き方が、「世界」=「僕」という設定を可能にしているからだろう。しかし、それはどのようにして? 「世界の終り」の「世界」とはあくまで「僕の世界」にすぎないが、実は「僕のではない世界」が存在しない(これはすべての「僕」の「世界」の一部に含まれてしまい、そして「僕」にとって関係のないものは、「僕」の「世界」の中では無意味になってしまう)と読者に確信させるところから、「世界」と「僕の世界」とが完全に一致させることができる。ここで読者が置いて行かれないという手法を編み出したことこそ、村上春樹が文学者でありえた重要な理由であるように思える。


 読者は、第一に否定されるのではなく、春樹的な「僕の世界」の一部として含まれる。第二に、そのように含んでいる「僕」の視点を、読者の世界がそこに一部として含まれる契機を通じて、読者が獲得する。その契機には、日常的な快楽が作用しているだろう。そして第三に、そのような視点を獲得することで、読者も新たな「僕」になる。そして、「僕の世界」は、「僕(ら)の世界」になる。しかしここで「(ら)」はあくまで表面化しない仕方でしか実現しない。それぞれの「僕」が絶対的な視点において、それぞれの「僕」を相対的にうちに含んでいるという統一的な世界像を共有することにおいて、それは実現しているので、その(ら)はあくまで不在の(ら)にすぎない。その「僕の世界」で展開される個人的な「情景」は、それこそが「世界の存在根拠」として浮かび上がる。そして、その過剰な快楽が、読者に中毒症状を引き起こす。その症状が、自分も春樹的な文章が書けるという確信である(この確信はほぼ100パーセント裏切られる。なぜなら、その効果を生み出したのは、自分が感じている個人的な情景ではなく、個人的な情景を世界の存在根拠にまで押し上げる村上春樹の文章構成方法にあるからである)。


 したがって、春樹的な文章は、実存的であるということができるだろう。しかしそれはサルトル的な意味ではないだろう。サルトル的な実存とは、社会的なものを個人的な快楽に変換する装置である。60年代的なものはこの装置によって動いていたような気がする。春樹的な文章は、そういったものを否定するべきだという衝動によって動いているような気がする。彼の倫理観は、社会的なものを個人的な快楽に変換することのある種の汚らわしさに対する攻撃なのではないか。そこから、個人的な快楽から出発して、(僕の)世界について思い悩む転倒した実存主義が生じているような気がする。
ところで、この「世界」では、「女」の役割は、常に外的でしかない。悩むのは常に「僕」であって、「女」は、その「僕」の「世界」の一要素にすぎないからである。だから春樹は「女」を書くことができないのではないか。ここで「女」とは「他者」の具体化された要素である。春樹の文章には「他者」がない。その「他者の欠如」が90年代以降の彼の文章を支えていたものであったような気がする。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)


 春樹と舞城の間に、「世界系」の話を入れないとやはり不十分だが、今は端折って先を急ごう。


 舞城はそれに対して対比的に書くならば、世界そのものというフレームがもつ快楽を媒介することによって、個人的なものから個人的でないものへと抜けるべしという当為(命令)を発しているのではないか。『ディスコ探偵』以前の作品においても、この「べし」までは行けていたような気がする。例えば『阿修羅ガール』がその例だ。これを単に「べし」と発するだけでなく、読者と共に自らに対して「べし」と言うというところまで行くことが、ここ最近の、たとえば『九十九十九』と『ディスコ探偵』との共通のテーマな気がする。『ディスコ探偵』ではだいぶ読者を減らしてしまったかもしれないが、少なくともこのテーマはうまくいっているのではないか。少なくとも『九十九十九』よりはうまくいっている。その一つの理由には、名探偵との距離感とか、主人公が直面し続ける無能力とかその辺の設定がうまく効いていることがあるだろう。具体的な分析はまた今度にして、大枠について述べてしまおう。

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

 舞城の文章は、多くの場合がそうだが、最初の数ページは、春樹的な「個人的な快楽から世界の存在根拠へ」的な手法を使う。この手法の縮約の度合がなかなか大したものなのは、ここ30年の間に春樹的な手法が様々なメディアで繰り返し用いられてきたことによるのだろう。少なくとも、作者である舞城とほとんど同じ時代を生きてしまっている読者にとって、その高速度の処理は特に苦にならないだろう。これによって、一気に「僕の世界」を現出させる。舞城の文章の本領はここから始まる。すなわち、この「僕の世界」から「僕」を追放する、あるいは、世界のほうのフレーム自体が世界の中に現れることで、世界のほうが矛盾をきたし破綻することで、僕がそこから外部に放出される。『九十九十九』では、この運動は「清涼院流水」という作者というメタオブジェクトの力借りることによって受動的な仕方で遂行する。能動的になるのは、この作品の最後の章だけであって、それ以外は受動的なままである。


 『ディスコ探偵』のほうは、この運動を、主人公以外の人物(いわゆる「名探偵キャラ」)が代行することによって、受動性そのものが受動化され外化され、そのせいで、その受動性を乗り越える能動性のほうが、主人公のほうに返されることになる。そうすると、「世界を壊す」=「世界を乗り越える」=「自らの矛盾に自ら目を向ける」という思考作用が能動化される。ただし、この水準に読者をうまく巻き込むだけの装置がまだ開発されていない感じがある。この作業に耐性のある人(この作者がこれに長けていることは言うまでもない)はまだしも、そうでなければ混乱するか、なんともいえない徒労感に襲われるのではないだろうか。この装置を開発することにもし仮に舞城が成功したとすれば、それは大変なことだ。


 自らの矛盾に自ら目を向けて、自らの世界を自ら壊すという作業において信仰されているのは、その先に広がる新たな世界の存在であり、そこにはすでに存在しない私以外の「他者」である。そして、この構図こそ、『ディスコ探偵』の下巻の最大の主題であるだろう。ここでこの「他者」は、「子供」である。ここにある種の「生殖モデル」が入り込んでいることは間違いない。(「他者=子供」と「生殖」ということに関しては、次を参照されたい

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

)。しかも、それは「世界」そのものによる「生み」と「死」の行為である。その先には「僕」は行けないというのがさらに重要なポイントである。つまり「僕」は死にゆく世界と共に、消え去ることを自ら選択するということである。それこそが「他者」への信仰でなくて何なのか。「僕の世界」=「世界の終り」的な倫理からすれば、これは最大の悪であるだろう。子供はいてはならないのである。それに対して、「自ら壊れゆく世界」=「終わらない世界」的な倫理からすれば、これこそが最大の善であるだろう。個人的な私は否定され、消尽され、それによって私ならざる他者(子供)が生み出されることが全力で持って肯定される。


 舞城の文章が文学であるとすれば、それはこのような倫理の変更をやってのけたことにあるのではないか。

西尾維新の文体について1



少々長いが、冒頭の1ページを引用する。
ちなみに(A)〜(C)の記号は原文にはない。便宜上付記した。

(A)
「学校の主役は生徒ではなく先生なのです」
 臨時講師として学校法人私立千載学園に派遣された私に対して臆面もなくそう言ってのけたのは他ならぬ串中先生ではあったけれど、しかしそれが偽りない彼の本音であったなどとは、はばかりながらわたしはまったく考えていない。それは第一に串中先生が会ったばかりのわたしに本音を言うとは思えないからだし、第二に串中先生は誰に対しても本音を言うとは思えないからだ。
とは言え、誤解されても困ってしまう、ここでわたしは何も彼が嘘つきだと主張したいわけではない。 
 実際、彼は嘘つきではなかった。
 彼は――言うなれば思い付きだ。
 思いつきこそが、彼の全て。
 その瞬間瞬間の発想だけが、串中先生の支柱となる何かなのだった。
 彼は刹那で生きている。
 彼は切なく。
 彼は拙なく――生きている。
 実際問題、くだんの(問題)発言にしたところで、口にしたまさにその瞬間だけならば、串中先生はそれを自分の本音だと思っていたかもしれない

(B)――いや、言ってしまえばわたしはこういう風にも思うのだ。誰にもわからない串中弔士のことを誰よりもわかっていないのは、他ならぬ彼自身ではないのかと。
自分がどういう人間なのか、それを明確に言葉にできる人間がそうそういるとは思えないし、それはたとえばこのわたしにしたところで例外ではなく、愚かしくもそんな大層なことは言えた身分ではないのかもしれないが、しかし、串中先生の場合は場合が場合で、彼は望んで自ら泥沼に足を突っ込んでいるような節がある。
 泥沼の中に片足どころか両足を――突っ込んでいる。
 否――泥沼のなかに住んでいるのか。
 底なし沼の底に住んでいるのか。
 慇懃無礼を絵に描いたような馬鹿丁寧な言葉遣いから常にネクタイまで締めた背広姿から、串中先生はどこか紳士然としていて、ジェントルマンぶっていて、確かに教師陣の間でも、あるいは生徒の間でもそのようにとらえられてはいるがしかしわたしの解釈では、串中先生のその『紳士的』なキャラクターは恐らくたたの演技であって、そして演出であって、彼の現実のキャラクターがもっと違う種類のものだろうことをほぼ確信的に推測している。じゃあそれは一体どんな性格なのかと言われれば、それは付き合いの浅いわたしにははっきりとはわからないのだけれど――付き合いが深かったところで、はっきりとはわからないのだろうけど。
 そして。
 きっと串中先生自身には、まるでわからないのだろうけれど。

(C)
人間の振りをして生きている。あるいは人間の真似をして生きているという感じだろうか。
 そもそも人間という生き物はそういう風にして生きるものであり、両親の真似をし、友人の真似をし、とにかく周囲の人間の真似をして、ゆっくりと自分の人格を形成していくものであり、それはきっと、わたしのような特殊な生い立ちを持つものでさえその範疇なのだろうけれど、しかしその言にのっとって言うならば(そして勝手なことを言わせてもらえるならば)串中先生はその真似が、恐ろしいほどに下手っぴだった。
 ちっとも上手くない。
 駄目の駄目駄目――だ。


ずいぶん不可解な文章だ。
そう感じる人も少なくないだろう。
少なくともかつて国語の教科書で読まされたような小説とはずいぶん違う。
そもそもこの箇所では、本作の主人公「串中弔士(くしなかちょうし)」が語り部(「わたし」=病院坂迷路)によって読者に初めて紹介されているのだが、この語り口はいわゆる「小説っぽい」人物描写――服装や表情や雰囲気を比喩を交えて描き出身や経歴で補完するといったタイプのもの――とはかけ離れている。


ただし、こうした一読して癖のある文体が西尾維新の魅力の一つであることは否定しがたい。おそらく、かつての若者にとって村上春樹の語り方がもっていたものと同質の魅力を、彼の文体はいまの若い読者に対して発揮しているようにみえる。「同質の魅力」とはつまり、<こんな風に喋れたらいいのになぁ>という印象を惹起し、読んだ直後に思わず真似したくなってしまうような特性を持った文体だということだ。私自身はそこまでの印象を受けることはないにしても、彼の文章が独特の仕方で読み手を惹きつけ引きづりまわし読み進めさせる高い性能を持っていること(その読中感覚は近年の優れた少年マンガにいくぶん近い)は否めない。


では、西尾維新の文体の特徴はいかなるものだろうか。
結論を先取りして言えば、それは以下の3つのステップを極めて細かく踏み続けながら文章が進行するということである。


①部分を欠いた全体が示唆される(=問いが立てられる)

②欠如を埋める部分が提示される(=答えが示される)

③提示された部分が欠如部分に挿入されるが、けれども元の全体は回復されず、新たな部分を欠いた全体が構成される。(=示された答えは、元の問いを解決せずむしろ元の問いをズラし、新たな問いを構成する)

(*③が再び①につながることで三つのプロセスは循環的に進行する)


具体的に見ていこう。
冒頭の一文「学校の主役は生徒ではなく先生なのです」は一見して非常識的な発言だ。常識的には「学校の主役は先生ではなく生徒」であり、少なくとも建前として大概の教師はそう言うだろうと通常は思われているからこそ、この一文が読み手の興味を惹きつけ、そして「なぜ『串中先生』なる人物はこのようなことを「臆面もなく」言うのだろう、彼は本気でそんなことを言う人物なのだろうか」という疑問が読者に生じる。


この問いに対して、はやくも第一文中で暫定的な答えが示される。「それが偽りない彼の本音であったなどとは、はばかりながら私はまったく考えていない」、と。ということは、「学校の主役は生徒ではなく先生なのです」という発言は本音ではなく嘘であり、串中弔士とは非常識な振りをしたがる常識的な人物なのだろうかと読者が思い始めるタイミングで、この答えは否定される。「誤解されても困ってしまう、ここでわたしは何も彼が嘘つきだと主張したいわけではない」、と。そして、「彼は言うなれば思いつきだ」という駄洒落(韻を踏んでいるというべきか?)によって、問題はむしろ冒頭の発言が本音か嘘かではなく、上記の発言を本音としてでもなく嘘としてでもなく、その瞬間だけの本音として言っているように見える串中弔士の異常性に移される。ここまでの僅か10行程度の文章においてすでに以下のステップが踏まれている。


①問いの提示(=なぜ串中先生は「学校の主役は先生」等というのか)

②答えが提示される(=それは彼の本音ではない)が、
それはすぐに放棄される(=しかし彼は嘘をついているのではない)

③新たな問いが構成される(=では、本音でも嘘でもないなら何か)

④答えが提示される(=思いつきだ。その瞬間だけの本音だ)


ここまでが(A)パートであり、④で提示された答えはBパート冒頭で再び廃棄され、問いはズラされ新たに構成される(=いや、いってしまえば〜誰にもわからない串中弔士のことを誰にもわかっていないのは、他ならぬ彼自身ではないのか)。このあとBパートでは、彼が「誰からも理解されない自分を誰よりも理解していない人物」であるという記述が再び繰り返され、そのような「串中弔士」とは何者かという問いが立てられる。Cパート冒頭では、「人間の真似をして生きている人物」という答えが与えられるが、この答えは「そもそも人間はみなそういう風に生きている」と言われてしまってまたしても最終的な解答にはならず、「人間の真似をすることが恐ろしく下手っぴな串中先生」とは一体どういう人物なのだろうか、という新たな問いが構成される。


問いは答えを呼び、呼び出された答えはしかしもとの問いにはうまくあてはまらず、その違和感から新たな問いが呼びだされる。そしてその問いは新たな答えを呼び(以下繰り返し)…というサイクルが高速で何度も繰り出されていく。


言い換えると、前述した箇所は「串中弔士」という人物を紹介するパートなわけだが、彼は冒頭の発言「学校の主役は生徒ではなく先生」をつうじて、どこか欠けたところのある人物として登場する。次に提示される言葉「それは彼の本音ではない」がそのまま受け入れられれば、串中弔士という人物像は、「非常識的な物言いを好むが実際は常識的な人物」という全体を回復するだろう。が、その解答が「本音ではないが嘘をついているわけでもない」という記述によって速攻で否定されることで、彼の全体像は再び不明瞭なものとなる。いや、単に不明瞭なものとなるだけでなく、新たな「部分を欠いた全体」が示されるのであり、それは「本音でも嘘でもなく非常識的な物言いをする人物」という謎を提示することになる。全体は部分を欠き、新たな部分を挿入されることで、新たな部分を欠いた全体として更新される。


西尾維新の記述レベルでのこうした特徴は、伝統的な物語の構造をある仕方で継承し加速し変形するものとなっている。


大塚英志がしばしば指摘するように、昔話や民話の多くは「何かが欠けている」という状態で始まる(主人公が家族を失い孤児となるとか、継母に苛められているといった状態が代表的)。彼が援用する例によれば、ある部分が欠けた円図形(漫画的な簡単な擬人化を施されている)を見せられたあと、その円が失った部分を自ら取り戻そうとしていると伝えられた幼児は、円図形の冒険を描く物語を細かく復元できたと言う。つまり、<①何らかの部分が欠けている>場面から始まり<②欠けた部分が何らかの形で取り戻され全体が回復される>ことで終わるというプロセスからなることが、伝統的な物語の基本的な構造である。より精確には、このプロセスを経ることによって多くの物語は読者にカタルシスを与えるものとなっている、ということだ。


こうしたプロセスは、一昔前まで王道とされていた少年マンガには頻繁に見られる。例えば、<①純粋で素直な少年が、しかし精神的肉体的な非力さによっていじめられている>→<②少年はボクシングを始めることによって強い力と心を獲得し、その純粋さと素直さによって伝説のボクサーへと近づいていく>=「はじめの一歩」。あるいは、<①夢を追う天才的なサッカー少年が、尊敬するコーチの裏切りによって挫折する>→<②挫折を糧に成長した少年はコーチの母国でサッカー選手として成功する>=「キャプテン翼」。また、こうした構造のカタルシスを極めて論理的・形式的に洗練させてきたのが推理小説やミステリーである。そこでは<①人が殺され、その犯人ないし犯行の方法が不明である>→<②探偵の推理によって真相が明らかにされる>。殺人事件とは謎であり、「部分を欠いた全体」であって、それを埋める部分=トリックを発見する探偵によって全体=事件の真相が回復されるのである。


西尾維新の小説は、①これらの作品が物語全体の流れとして構成するプロセスを細かい記述のレベルで反復していく、②これらの作品では復旧されるべき全体があらかじめ示唆され変更されることがないのに対してむしろ答え(欠如を埋める部分)を頻繁に提示しながらそれによって問い(全体)を次第に変形させることで螺旋状に物語が展開していく、といった特徴を持っている。


比喩的に言えば、一部が欠けた円形の図形にある部分が挿入され、それによってもとの形が復元されたと思ったら、むしろ一部が欠けた四角形のように見えてきて、再びある部分を挿入したら、今度は一部がかけた三角形のように見えてくるといった次第であり、全体は固定されていない。これに対して、オーソドックスなミステリーでは、<部分を欠いた全体が提示される=論理的な謎を孕んだ事件が起こる>→<全体が回復される=探偵によって事件の謎が解かれる>というステップを大枠で踏む。ただし、多くの場合、両者の間に<誤った部分が挿入され、全体が回復されない=助手や探偵本人が暫定的な推理を行いその誤りが指摘される>というステップが何度かはさまれる。この中間的な団塊が何度か踏まれることで、全体の回復がいかに困難であるかが強調されるとともに、失敗のあとの成功のカタルシスと名探偵の輝きが産出されることになる。とはいえ、こうした過程において全体の変形が生じることは稀である。


<注:欠けた部分を追い求めてそれを獲得したら、最初に求めていたはずのものとは異なるものとなってしまい、それによって新たな欠如と新たな全体が算出されていくといった構造をなす物語は、初期村上春樹の特徴でもある。村上は、こうした物語叙法を、ハードボイルド作家レイモンド・チャンドラーが得意とした「主人公は何かを探しそれを見つける(シーク&ファインド)が、その時探すべきものは最初のそれから変質している」という形式をミステリーではない領域に移し変えることで獲得したと自ら語っている。西尾と村上の類似性と相違については、次のエントリーで詳述したい。>


つまり、西尾作品は民話や少年マンガやミステリーが培ってきたカタルシスの産出方法を高密度に圧縮して文体レベルで実装しているのである。それが、結構ひねくれた人物や思想が頻発するにも関わらず、彼の小説がある種の読みやすさを持つこと、一度読み出すと多少違和感を感じながらも読み進めてしまうハマリ度において高い性能を持っていることの第一の理由と考えられる(ただこれだけでなはない)。


<注:物語論的なカタルシスの産出方法を高密度に圧縮するという手法は、近年の少年マンガ、例えば『鋼の錬金術師』等にも見られる。4コマ出身の作者荒川弘は、ストーリーマンガも4コマの延長だと断言して次のように述べている。「50ページと言っても起承転結はありますよね。まず、起を4つに割るんです。承、転、結も4つに割っていく。どんどん割っていって、一つのエピソードを起承転結で割る、1ページを起承転結で割る、それを繰り返せばいいんです」『ユリイカ08年6月号』荒川弘インタビューより>


また、②の特徴は、記述レベルだけでなく物語全体の構成の仕方にも見られる。形式的な典型例は全編メタフィクションがせりあがっていく構成を取る『君と僕の壊した世界』だが、総じてミステリー形式を取る西尾作品に見られる特徴でもある。つまり、事件が解決されることによって全体が回復されるどころか、むしろ新たにより根本的な欠如を生み出す仕掛けとして西尾はミステリーを悪用するのである(典型例は『不気味で素朴な囲われた世界』。同様のやり口は、舞城王太郎ディスコ探偵水曜日』上巻後半の名探偵連続殺人の下りにもより徹底した形で見られる)。


しかしながら、こうした記述の方法論がもっとも効果を発揮してきたのは、一人称独白への適用によってであり、それが西尾独特の「僕語り」を生み出す。


すなわちそれが「戯言」である。【2に続く?…】



*ここでまだ考察できていないのは、全体を変形し続ける螺旋状の物語が要請されることの歴史的背景やその意義ないし物語に与える効果といった点であり、また、全体が変形してしまうとき終わりはいかにして構成されうるかといった点である。ただ、これらの点を考察するためには、まず「戯言」を先にやっつけなければならないように思われる。

*本文には直接関係ないが、もし、この文章で興味を持ち西尾維新を初めて読んでみようという方がいらっしゃたら、本作ではなく『きみとぼく』シリーズの1、2作目ないし戯言シリーズをまず読まれたほうが良いかもしれない。本作についての一読者としての感想は、アマゾンでレヴューを書かれている方々の見解とあまり変わるところはない(=シリーズ後半になるほど若干だれてきているように感じる)。

いったん世界を閉じるために

再録。

いま読むと、色んなことを言おうとして若干混乱した文章だが、とりあえず備忘用に。



******

「世界を閉じる」というのは、
「閉じた世界を描く」ということではない。

例えば、
典型的な新本格ミステリーや
古典的なジョブナイル(青少年むけの成長物語)などといったジャンルの小説は、
作品で描かれる世界(の構成要素)があらかじめ限定されていて、多くの場合、「閉じた世界を描く」ものになっている。

新本格では、たとえば犯罪の社会的要因といった背景は描かれない。
名探偵が鮮やかな推理を披露した後、
名指された犯人がいかに貧困と差別のなかで追い詰められてきたかを
執拗に書いてしまったら、トリック解決の爽快感が台無しになる。

ジョブナイルでは、たとえば世界の紛争地帯の悲惨さといった事実は描かれない。少なくとも日本を舞台に少年・青年の成長を描く限りは難しいだろう。たとえば、恩田陸「」ネバーランド』は正月休みに高校の寮に残った4人の学生がそれぞれのトラウマを明かし乗り越え成長していく物語だが、もしそこに紛争地域の絶望的な暴力と貧困に苦しむ子供たちの描写をカットバックで入れてしまえば、物語の重心は崩壊するだろう。つまり、当人の意思や勇気や友情や努力によって人間が成長していくということがそもそも不可能であるような状況が現にあるという事実、それを書き加えてしまえばジョブナイルは成立しにくいということだ(ただ、そうした事実を示してなおジョブナイルを成立させることができればかなりの傑作になるかもしれないが)。

つまり、物語を作るということは何かを書くことであると同時に何かを書かないことでもある、ということ。言い換えれば、物語(=小説)とはそこに書かれたものと書かれなかったものからなる。何を書いて何を書かないのか、その線引きから作品世界の骨格がまずはたちあがってくる。

「閉じた世界を描く」小説とは、そこで書かれるものと書かれないものの線引きがあらかじめ大体決まっていて、その約束事を前提にして作者が提供し読者が享受するような小説群を指す。作品世界が明らかに「絵空事」であることを読者が了解しているというタイプの小説ということになるだろうか。昔はこういった小説を「エンターテイメント」、そうでない小説を「純文学」として明確に区別できたようにも思うが、現在ではこの前提は壊れつつある。

小説の文章がいかなる意味をもって個々の読者に訴えかけるかは、基本的には、①小説に書かれた文章②読者が生きる意味世界(その読者の知識、経験、感情など)③読者による小説の読み方の三つの要素がどう関係するかによって決まると思われる。
たとえば、作中で殺人事件が起こり、探偵がトリックを見破って犯人を糾弾するシーン。このとき読者は、文章を読むだけでなく、自分の記憶している知識や経験や感情を参照する。人を殺してそれを見破られるということがどういうことなのか、経験はなくても推測はできるし、普通に考えればそこには激怒や安堵や自負や落胆や後悔といった色んな感情が混乱したままあるだろうと感じられるだろう。

だが、例えば新本格ミステリーではこうした犯罪者側の混乱した感情が描かれるということはあまりない。そのかわりに、トリックの謎解きがいかに難解で予想外で洗練されたものであるかに筆者と読者の関心は集中する。こうした「約束事」を踏まえて読者が小説を読むからこそ、新本格ファンは「犯罪者にリアリティがない」などとは言わない。(新本格を読んだことがない人は『金田一少年の事件簿』等における犯人の自白シーンを思い出していただきたい。そこでは殺人に走った犯人の感情の混乱などは余り考慮されず、金田一少年が悪を懲らしめることの爽快感に焦点があてられる。視聴者はどこかで「うそくせぇなぁ」と思いつつ、「ま、娯楽アニメだし」と言いながら勧善懲悪の鮮やかさに焦点をあてることになる)。

「約束事」があるということは、読者が自らの意味世界のうち参照するものをあらかじめ限定して小説を読むことが前提になっているということだ。したがって、「閉じた世界を描く」小説では、作品世界と読者が生きる日常世界はある程度切り離されることになる(=「絵空事」)。これに対して「世界を閉じる」小説とは、作品世界が読者の生きる世界全体の姿を映し出す鏡のようなものとして機能し、前者によって後者の意味が新たにいきいきと見出されるような作品を指す(まだ試行錯誤中の表現だが、例えば村上春樹の長編を読んだあと自分の日常を村上風の文体で描きたくなる、といった際に生じていることが想定される)。

別の視点からすれば、「閉じた世界を描く」とは、あらかじめ存在する約束事によって作品世界を完結した全体たらしめることであるのに対して「世界を閉じる」ということは、こうした約束事を前提とせずに作品世界をひとつの完結した全体としてまとめあげる、ということだ(定義がまだ足りないようにも思うが、まずはこれで)。

上で指摘した、小説の意味作用を規定するのは三つの要素(①、②、③)の関係であるという点をふまえれば、「世界を閉じる」ということがどんなに難しいことか分かるだろう。というのも、どんなに長大な小説でも読者の参照する知識や経験を全てフォローすることはできず、「約束事」なしでは、必ずどこかで不整合が生じる可能性があるからだ。

例えば、自分の経験や感情から出発して「親」という存在と子供の関係を描こうとした場合、読者にもそれぞれ異なる「親」をめぐる経験や感情があり、それへの参照をただそのまま放任する限り「親子関係とはそういうものではない、この小説にはリアリティがない」といった読者の反応は避けられない。


では、どうすればよいか?


多分こうだと思うのだが、


「作品に書かれないことも―ある種の仕方で―書けばいい」


なんだか禅問答のようだけれども、「ある種の仕方で」というのがポイント。

例を挙げよう。

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険


**
 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドックをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆ど聞き取れなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドックを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子にのってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。
「君が欲しいな」と僕は言った。
「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。
村上春樹羊をめぐる冒険(上)』P21:第一章1970/11/25)
**

ここで問題にしたいのは、第二〜第三文、テレビに映る三島由紀夫をめぐる記述である。この章のタイトルでもある1970年11月25日は三島由紀夫が割腹自殺した日にあたる。たとえそれを知らなくても、「三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた」という記述から、多くの人はこの事件を想起するだろう。有名な人気作家が自衛隊の決起と反乱を呼びかけて演説し、さらに切腹するという過程をテレビで見る若者(上で「我々」と呼ばれているのは「僕」21歳と「誰とでも寝る女の子」17歳)。の姿が描かれる。

当時の若者にとっては、後続世代にとってのオウム事件や9.11に近いインパクトを持ったであろう事件である。当時若者だった人々(団塊の世代)がこの文章を読んでも、それを昭和の歴史を振り返るTV番組等で見たことのある若い世代が読んでも、こうした事件の生中継を見ている時には、何かしら大きなこと、悲惨なこと、滑稽なこと、要するに非現実的なことが起こってくれるんじゃないかというやや後ろめたい期待をしながら熱中してしまうものだということを想起する可能性がある。

例えば、村上春樹と同年代の会社員が定年退職して趣味で小説を書くようになり、自分の学生時代を回顧する作品を書こうとしてテレビの中の三島由紀夫を題材にしたら、多くの人はもっとディティールを書き込むだろう。作家の振る舞いや周囲の学生の様子、自らの感情のたかぶりなど。たとえ、この事件に対する自分や周りの学生の反応が総じてしらけたものであっても、そのしらけっぷりを細部に渡って書きたくなる人が多いと思われる。

だが、ここで村上は「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった」の一言ですませてしまう。

不整合が起こる。「おいおい結構大事件じゃん。少しは反応するだろ普通?彼女とも何か喋るだろうし。何か不自然な小説だな」と読者が思って、ひいてしまう可能性が生じる。

しかし、ここで村上は、この文章を読んだ読者が「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」にかかわる自分の記憶を参照することを未然に防いでいる。

より正確には、彼は、読者が「社会的大事件(あるいは三島事件)」をめぐる記憶を参照する仕方を変形しようとしている。

どういうことか?

まず、上の文章の前段落で「僕」と「彼女」は次のような会話をしている。


**
「あなたと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」
「済まないと思うよ」と僕は言った。
「あなたのせいじゃないわ。それにあなたが私を抱いている時に別の女の子のことを考えているせいでもないのよ。そんなのはどうでもいいの。私が」彼女はそこで突然口を閉ざしてゆっくりと地面に三本平行線を引いた。「わかんないわ」
「べつに心を閉ざしているつもりはないんだ」と僕は少し間をおいて言った。「何が起こったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ」
「どれくらいの時間?」
僕は首を振った。「わからないよ。一年で済むかもしれないし、十年かかるかもしれない」
彼女は小枝を地面に捨て、立ち上がってコートについた枯草を払った。「ねぇ、十年って永遠みたいだと思わない?」
「そうだね」と僕は言った。
**

ここで描かれているのは、
「僕」と「彼女」(8年後に交通事故にあって死んでいることが冒頭で示されている)が一応カップルでありながらそれぞれの内面に問題を抱え、
その理由も対処法も分からず、相手に何かしてやりたいという気持ちを
発揮するやり方も分かっておらず、摩擦もないままどうしようもなくすれちがっているという事態である。

こうした事態が描かれた後に出現することで、三島由紀夫事件の意味合いが通常の歴史的・社会的事件としてのそれから変化させられている。

つまり、ここで意図されているのは読者が参照する先を「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」から、「社会的大事件を目撃しても何の関心も持てないほど、自分の心や対人関係が閉塞することもある」へと移し変えることである。その補助的役割を果たすものとして、「いつもの」ホットドックやコーヒーといった日常的事物の描写、音声が小さすぎるのでヴォリュームを上げようとしてあきらめた学生、といった描写がある。これらの描写は、三島事件を非日常性(祝祭性)やメッセージ性から切り離し、「君が欲しいな」「いいわよ」から始まる二者間関係の閉塞と後の彼女の死へとつながっていく。


まとめよう。


この例の場合、<作品に書かれている>のはTVに三島由紀夫が映っているという事態であり、<作品に書かれていない>のは、そこから想起される「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」という読者の記憶であるに対応する表現である(もちろん、これは我々の世代も含めた村上春樹読者の最大公約数をとったときの表現であり、より政治的・文学的・ナショナリズム的なニュアンスの記憶と結びついている人々も多いだろう)。

この<作品に書かれないこと>は、「社会的大事件を目撃した際に覚える興奮や緊張」から、「社会的大事件を目撃しても興奮や緊張を覚えないほどの心と関係の閉塞」という命題の一部に組み込まれることによって、再び<作品に書かれるもの>となっている。つまり、ここでは「興奮や緊張」は不在だが、それらが不在であることは、それらを無効化するほど「強力な内への閉塞」が存在することを表している、ということだ。したがって、「社会的大事件を目撃した際に覚える興奮や緊張」を読者は一度は参照するが、その「緊張や興奮」の記憶がより強いものであるほど、それを打ち消す「心と関係の閉塞」もより強力なものとしてイメージされる。そして、この新たなイメージの内部には、不在のまま(打ち消されたものとして)「緊張や興奮」という<作品に書かれていない>ものが含まれているのである。


さらに、こうした操作を通じて、読者が生きる意味世界(経験、知識、感情等の混合体)において、「社会的大事件」と「自らの心と対人関係の閉塞」との結びつきがあ(りう)ることを強調し、そして後者が前者よりも全く重要であるような日常があ(りう)ることを強調することが可能になる。狙いが幾分かでも成功すれば、この文章は読者の生きる意味世界を幾分か以前とは違う形で組織化することになるだろう。

つまり、「世界を閉じる」作品には、小説には書かれていないけれども書かれていることから読者が想起するだろうことを作品世界の内部にきちんと組み込むことができるようなシステムが構築されている。
だから、「閉じた世界を描く」作品の場合、これを入れたらこの作品って崩壊するよなという例(ジョブナイル←紛争地の極限的悲惨)を思いつくのは比較的容易なのに対して、「世界を閉じる」作品では難しい。どのような要素を入れようとしても、元の作品世界にあわせてなんらかの調整(翻訳)をすれば問題なく入れれるように思われるものが、「世界を閉じる」ことに成功している作品ということになるだろう。


ここでの分析は、「いかに世界を閉じるか」という問いの答えとしては部分的なものに留まる。いずれまた別の側面から考えてみたい。


最後に。

小説を書くということは、<①小説に書かれた文章=読者が読む文章>自体を構築することだけではなく、書くことを通じて、①と<②読者が生きる意味世界>と<③読者による小説の読み方>の三つの要素の関係・相互作用をデザインすることである(意識的にせよ無意識的にせよ)。もちろん、これさえできればちゃんとした小説を書けるわけ(十分条件)ではないが、これができないとちゃんと読める小説は書けない(必要条件)のではないかと思う。



*注

1誤解を招く言い方になってしまったが、世の中に出回ってる全ての小説が「世界を閉じる」小説と、「閉じた世界を描く小説」に二分されるわけではない。それに、ある小説がどちらに属するのかもあらかじめ決められないし、読者によって異なる。というのも、?<読者による小説の読み方>が常に関わってるからだ。新本格の約束事を全く知らない読者のなかには、これらのミステリーをかなり奇妙な仕方で「世界を閉じる」小説として読むものもいるかもしれないし(実際、森博嗣の特に初期作は個人的にそのように読めないこともない)、村上春樹の作品群に共通した約束事を見出して「閉じた世界を描く小説」として読んでいる読者もけっこういると思う(「海辺のカフカ」ファンサイトとかの書き込みはそんな印象も受ける)。

2ここで言う「世界を閉じる」小説とは、いわゆるセカイ系とは直接の関係はない、と思う。少なくともイコールではない。後者は前者の特殊な進化系のひとつであるかもしれないが。

3「閉じた世界を描く」小説は、常に二流のエンターテイメントでしかありえない、というわけでは全くない。例えば西尾維新は、約束事を自家増殖させるなかから、それが絶対に描かれないことで作品世界が成立していた<書かれないもの>を最後の最後で書くことで「世界を開く」手法を時折使う。例えば、戯言シリーズ最終巻終末部に登場する「一般人・玖渚友」、『君と僕が壊した世界』終末部で突然ニュースに流れる爆弾テロなど。

90年代分析1(音楽)ミッシェル的なもの

久しぶりに千葉氏(昔あったミッシェルガンエレファントのボーカル)の声を聞きたいとお思い、YOUTUBEで検索してみた。そしたらROSSOとBIRTHDAY(2000年代に千葉氏がやっているバンド)の音も聞けた。

たぶん、ある一定の人間にとって、ミッシェルは何か特別なものがある(正確には《あった》と言うべきか)のではないかと思う。考えてみるべきは、いったい何が《特別》であったのかということだ。しかし、これはあくまで個人的な出来事にすぎない。あくまで個人的に共有されるべきある種の特殊性*1
僕がミッシェルを最初に聞いたのは、それほど初期ではなくて、1996年ぐらいだったと思う。メジャーアルバムの一枚目か二枚目が出てたころじゃないだろうか。今Wikiで確認したら、どうも最初に出合ってるのは、メジャーのファーストアルバムの『カルトグラススター』らしい。なるほど、ある意味で、この時期は、僕自身にとってあらゆることが最も澄んで見えていたころだったような気がする。

《あの特別なリアリティ》

覚えているのは、ミッシェルが当時やってた(今もやってるのか?)HEY!HEY!HEY!に出たことだ。あの時に、僕の周りで論議が起こった。ミッシェルはHEY!HEY!HEY!に出るべきではなかったのではないか。いや、むしろ出るべきだった。など。

その根拠となっているのは、当時ミッシェルが持っていたある種の特別さ、音楽業界に対して提示していた何らかの《リアルさ》への影響の問題だったと思う。マスメディアに出ることで、その《リアルさ》が失われるのではないかのか?という懸念が反対派の根拠であり、一方で、その《リアルさ》によって、虚構である現実を塗り替える良い兆しであるというのが肯定派の根拠だったと思う。

どちらも共有するのはある種の《特別なリアリティ》。

そして、この全く《個人的》でしかない《リアリティ》が、本当に個人的なものではないということが明らかになってしまったのが、あの《横浜アリーナ事件》だと思う。

あの時僕は、種々の事情で京都にいて、ライブにはいきたくても行けない状態だったのだが、そのライブチケットは即日完売しかも、《横浜アリーナ》なのに《オールスタンディング》だ。

この意味は今ではあまりわからないかもしれない。横浜アリーナと言えば、当時では例えばサザンオールスターズとか、チャゲアンドアスカとか、ドリームズカムトゥルーとか、そういった感じの場所で、しかも基本的には、《コンサート》の形式をとるものだというのが常識だ。

そして、僕らの感覚からすれば、この《コンサート》というやつは、《虚構としての現実》を象徴するものに他ならない。マスメディアによって作り出された虚構の世界をそのまま演出しそれを観客が一方的に享受するのが、《コンサート》であるという理解があった。だから《コンサート》は無条件にダサい。

だから、ミッシェルがその《横浜アリーナ》でやるというのは、ある意味で事件だった。それまでミッシェルは《ライブ》にこだわっていたので、確か小さめの《箱》(集客人数せいぜい1000人程度までのライブハウスのことを箱という。中に入ると実際、箱みたいに見える)でしかやってなかったはずだ。そして、その姿勢に、ミッシェル支持者たちは、強い肯定感を抱いていたのも確かである。ある種のリアリティを共有しているという信頼感があった。

そして、ミッシェルがその信頼感を維持するために、あるいは単に、ある種のリアリティを維持するために、所属レーベルの営業方針にまで影響力を維持しているように見えていたということもまた信頼感につながっていたように思う。ここにも《マスメディア》に対する抵抗、あるいは単に、やつらはダサいという信念が見えていたことに安心感を抱かされたように思う。

そのような状況の中で、そのミッシェルが、《アリーナ》でやるというのだから、事件である。そして、そのニュースを聞いた時、一同不安に駆られたと思う。やはりミッシェルもこれまでのいろいろなものと《同じ》でしかなかったのか。

しかし、次に入ってきたニュースは、それを《オールスタンディング》でやるというニュースだ。これにははっきりと驚いた。《オールスタンディング》というのは、当時の《箱》での常識であり、前提事項であった。《オールスタンディング》というのは、ただ突っ立てるわけではない。客は動く。動くというか、暴れる。それを当時(今でも?)モッシュと呼んでいた。ある意味で、箱に行く理由の一つは、そのモッシュにあったとさえいえる。観客はすしずめで暴れるので、自分の動きは人の動きに左右され、人の波がある共有された快楽によって強制運動させられ続ける快楽。理性的なものは、たとえあったところで、大した機能は持ちえないという暴力的な現実。

今思えば、明らかに《ファシズム》の熱狂に近いんだよね、あれは。

そして、それを《コンサート》(これは反対に理性的なもの、近代的なものの象徴であった)の聖地、《横浜アリーナ》でやろうっていうのだから、驚いた。

結果的に、その《ライブ》は成功し、日本のロック史の中の重要なメルクマールを残すことになる。

しかし、このとき僕は同時に、

「ああ、もう終りなのかもしれない」

という漠然とした喪失感を持つことになる。ただ、そのときはそれは単なる、思いすごしかもしれない、単なる感傷的な懐疑にすぎないかもしれないと思って、たいして本気にしていなかった。ただ単純に気になっていただけだった。

そのような危ぐを確証するかのように(と僕には感じられた)、2001年にミッシェルは活動を休止する。

たぶん、問題は、《個人的なもの》でしかなかったはずのものが、いつの間にか《共有されたもの》であるということが、厳然たる事実として理解されるようになってしまったこと、いやむしろ、これほどまでんに《個人的なもの》でしかなかったものでさえも、《共有されたもの》に変質するのだという、現実の残酷さと別種のリアリティに打ち負かされたのかもしれない。

《個人的なリアリティ》なんてものはこの世界のどこにもないんだね。

横浜アリーナの映像をくっつけようとおもったけど、どこにもない。DVDで出てるのに上がってないということは、ファンの倫理感が強いせいだろうか。とか変な期待をしてしまう*2

最盛期と僕が個人的に判断する98年の映像。モッシュの感じもちょっと伝わるだろうか。「上に飛べ、上に」って千葉氏が言ってますが、つまり客は勝手飛ぶんです。それもごく自然に「前に」飛びます。なぜなら前のほうがステージに近いから。理由は単純ですね。でも前に飛ぶと前の人間はどんどん圧縮されていきます。しまいには大変なことになりますが、それがモッシュです。



特に関係ないですが、千葉氏がかっこいいです。

*1:ちなみに、ここで、このようなことが言えるようになったのは、もはやここで感じられていたことが過去のものになったという実感があるからだ。つい数年前までは、たぶんまだ信じてたと思う。そして信じていることについて人は語ることができないのだ。なぜなら、信じていることを語ったら、その瞬間にその信じていることを裏切ることになるからだ。つまり、そこで信じられていることは、ある非言語的な、あるいば前言語的なリアリティに他ならない。

*2:なぜ、ここで《倫理感》という語が自然に出てくるのか不思議に感じる人もいるかもしれない。しかし、ここでのモッシュに現れているような暴力性は、一方では倫理的なものでもあったのだ。実感として。暴力こそが倫理であるというのは、この時期に確かにあったと思われる何かでだった。《暴力と非合理こそが正義だ》というのは、矛盾しているようだが、当時としてはそれが実感だった。9.11との関係で考えなければならないテーマがここにある

概念整理1:キャラ

キャラクターのカテゴリーの例を挙げてみよう。
①サンリオ、ディズニーなどの子供用玩具系の商品名およびその対象。
②マンガやアニメ、ゲームなどの登場人物で、特に画像的な規定の強いもの。
③小説とくにゲームノベルライトノベルなどの登場人物で、②の抽象化によって得られているもの
実世界、仮想世界問わず、人格的内面性な実存的投企の主体のオルタナティヴとして、パーソナリティを情報(行為−反応の可能性)の束によって置き換える際に用いられる、主体把握の在り方

おそらく、概念は①から④に進むにつれて、内包がはっきりして来ているように思われる。その結果、④のような「キャラ」概念の理解に基づいて初めて、実世界の人間に対して、「あいつ最近キャラ立ってきたよね」的な言い回しが可能になる。

「キャラが立つ」という性質を形容する述語は、そのパーソナリティの情報の束が、多くの他の関係者によって把握され、その結果、他の関係者とそして本人自体も、そのような情報の束を《前提しながら》行為を行うようになることを意味する。つまり
[[
《キャラ立ち》は《キャラ》の反省的契機による《再二重化》である
]]といってよいかも。

二重化そのものは、自然的人格(実存的投企の主体)をキャラによって置き換えることであり、再二重化は、そのキャラを前提して、それを含む関係性が、そのキャラの設定を前提にして再構築されなおされることを意味する。

あんなことするなんてあの子のキャラじゃないよね」的な発言は、この再二重化された関係性に対して生じた歪みの知覚に基づいていると解釈することができる。

このような抽象的普遍的定義を介した《キャラ》という概念を理解するならば、「関羽キャラ」*1や「アムロキャラ」といった用語法を、ある種同等なものとして理解することができるようになる。関羽とはもちろん、三国史演義に出てくる蜀の国の登場人物である。しかし、
関羽的な振舞ということを、関羽であればしなさそうなことというところから理解することができる。逆にいえば、そのような理解の仕方が可能であるところにキャラが確定されていることになる。

では、単に、「頼りになる奴」とかいった形容句と何が違うのか。単純にいえば、もう少し内容が複雑なのである。たとえば、「関羽キャラ」を理解するためには、関羽劉備とチョウヒの関係はもちろんのこと、曹操やカコウトンらとの関係も、「関羽キャラ」の中に内包的に織り込まれていることが想定されている。単に「頼りになる奴」は、三国志演技の中には五万と登場する。その中でも「関羽的」な仕方で頼りになる奴は、二人といないわけで、そこには、そんな関羽にどこまでも頼っているように見える劉備の存在が不可欠である。

つまり、一つのキャラの中には、それ以外のキャラとの関係が織り込まれていることが不可欠なのである。そうすると、「キャラ」という概念の度合には、二つの水準が存在することになる。

一つは、単に二重化されている段階での《キャラ1》であり、この定義は、カテゴリー④と一致するものである。

もう一つは、再二重化を経た後で機能し始める《キャラ2》であり、この定義のためには、④をさらに、《キャラ立ち》の定義によって限定しなければならない。そして、2000年以降のキャラもののマンガおよび小説の多くは、このような《キャラ2》の存在を意図的に有効活用している点で、それ以前のキャラものとは区別されなければならないだろう。

《キャラ1》のキャラものの例(主に80年代から90年代にかけて)
らんま1/2
うる星やつら☆」
めぞん一刻
機動戦士ガンダム」(一年戦争、ゼータ、逆襲のシャア
「ファイブスターストーリーズ」
など

《キャラ2》のキャラものの代表例(主に90年代後半から最近)
ケロロ軍曹
「ヒグラシの鳴くころに」
「ラキスタ」
あずまんが大王
一騎当千

一騎当千 (1) (Gum comics)

一騎当千 (1) (Gum comics)

など
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《キャラ2》の後にくると考えられるが、他に類例を見ないのでカテゴリー化できないものとして、《キャラ3》を一応挙げておく。その例は、「もやしもん」に出てくる「螢」というキャラである。彼/彼女は、《キャラ2》的な初期値設定を持っていたにもかかわらず、ストーリーの展開によって、異なるキャラに移行することに成功している。普通、《キャラ2》的なキャラものは、設定されたキャラのポテンシャルがなくなるのと、その作品が消尽するのとは同時なのだが、それを奇跡的に?回避することに成功している。ただ、これに関しては、作者の意図したところなのか、それとも偶然の産物なのか定かではない。特に、ここにきて、「螢」的キャラの「散種」とも言うべきキャラ(白螢および黒螢)を、意図的に乱立させ、その中で、「螢」そのものの立て直しを行い、それに関連させて他のサブキャラである「及川」(おそらく初期設定としてはヒロイン)の《キャラ変更》を行おうとしているように見える点で注目に値する。

《キャラ》→《キャラ立ち(キャラ2)》→《キャラ浮動(キャラ3)》という構図が今後予想されるのかもしれないが、事態は進展中である。

*1:実際、このようなキャラは、「一騎当千」に登場するし、そもそも「一騎当千」自体が、三国志キャラによるキャラものである

「リアルの崩壊」3:9.11


前回の記事については、多くの感想をいただいた。その中で、まだ上手く言えていない部分が明確になってきたので、ポイントだけ示しておきたい。ただし、まだアイディアメモの段階であり、本文はいずれ書く予定。

前回の文章には次のような箇所がある。

9.11の映像は、もしもそれが映画であったならば、『ジュラシック・パーク』などの「よりリアルな現実」を追い求めるフィクションの系譜に間違いなく連なるものであった。しかし、これらの作品が差し出す「よりリアルな現実」は、常に「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎません」というエクスキューズを伴っている。そうである限りにおいて、我々は安全に快適に「よりリアルな現実」を求めることができたのだ。しかし、9.11の映像にはエクスキューズがない。

この箇所の含意は、9,11の映像が持ったインパクトは、その映像がハリウッド大作で描かれていたような事態――テクノロジーに囲まれた我々の日常生活(我々が普段「現実」だと思っている現実)のフィクショナリティ(虚構性)が暴かれ、「より本物の現実」が顕在するという事態――がフィクションではなく現実に起こったことに由来する、ということではない。ただ、前回の文章はこの点で誤解を招きやすいものであったし、書いた本人もまたその含意を明確に把握することができていなかったのは確かだ。色々と考察しなければならないことは多いが、一つだけ書いておくことにする。

「9.11の映像にはエクスキューズがない」ということの含意は、9.11の映像には「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎません」というメッセージが含まれていないということではない。そうではなくて、このメッセージが確かに発せられていて、しかしそれはエクスキューズとして機能しなかったということだ。おそらく我々がそこから受け取ったメッセージは「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎませんが、でもだからこそこれは現実なのです」といったものだったのだと思う。操作可能なシュミレーションの具体化としてのみ現実が構成され、そのプロセス自体は操作不可能であるという事態。そこでは、テクノロジーとフィクションの接合による運動を介して絶えず彼方に設定される「より本物の現実」に近づこうとする90年代後期の衝動が、あっさりと脱臼されている。そのような運動そのものを離れたところに「現実」などありえない、ということが端的に示されてしまう、そういった事態がこのとき生じていたのではないかと思う。

まださっぱりわからない表現だと思う。いずれ近いうちに、頭を整理して、考察を続ける。

[続く・・・]