いったん世界を閉じるために

再録。

いま読むと、色んなことを言おうとして若干混乱した文章だが、とりあえず備忘用に。



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「世界を閉じる」というのは、
「閉じた世界を描く」ということではない。

例えば、
典型的な新本格ミステリーや
古典的なジョブナイル(青少年むけの成長物語)などといったジャンルの小説は、
作品で描かれる世界(の構成要素)があらかじめ限定されていて、多くの場合、「閉じた世界を描く」ものになっている。

新本格では、たとえば犯罪の社会的要因といった背景は描かれない。
名探偵が鮮やかな推理を披露した後、
名指された犯人がいかに貧困と差別のなかで追い詰められてきたかを
執拗に書いてしまったら、トリック解決の爽快感が台無しになる。

ジョブナイルでは、たとえば世界の紛争地帯の悲惨さといった事実は描かれない。少なくとも日本を舞台に少年・青年の成長を描く限りは難しいだろう。たとえば、恩田陸「」ネバーランド』は正月休みに高校の寮に残った4人の学生がそれぞれのトラウマを明かし乗り越え成長していく物語だが、もしそこに紛争地域の絶望的な暴力と貧困に苦しむ子供たちの描写をカットバックで入れてしまえば、物語の重心は崩壊するだろう。つまり、当人の意思や勇気や友情や努力によって人間が成長していくということがそもそも不可能であるような状況が現にあるという事実、それを書き加えてしまえばジョブナイルは成立しにくいということだ(ただ、そうした事実を示してなおジョブナイルを成立させることができればかなりの傑作になるかもしれないが)。

つまり、物語を作るということは何かを書くことであると同時に何かを書かないことでもある、ということ。言い換えれば、物語(=小説)とはそこに書かれたものと書かれなかったものからなる。何を書いて何を書かないのか、その線引きから作品世界の骨格がまずはたちあがってくる。

「閉じた世界を描く」小説とは、そこで書かれるものと書かれないものの線引きがあらかじめ大体決まっていて、その約束事を前提にして作者が提供し読者が享受するような小説群を指す。作品世界が明らかに「絵空事」であることを読者が了解しているというタイプの小説ということになるだろうか。昔はこういった小説を「エンターテイメント」、そうでない小説を「純文学」として明確に区別できたようにも思うが、現在ではこの前提は壊れつつある。

小説の文章がいかなる意味をもって個々の読者に訴えかけるかは、基本的には、①小説に書かれた文章②読者が生きる意味世界(その読者の知識、経験、感情など)③読者による小説の読み方の三つの要素がどう関係するかによって決まると思われる。
たとえば、作中で殺人事件が起こり、探偵がトリックを見破って犯人を糾弾するシーン。このとき読者は、文章を読むだけでなく、自分の記憶している知識や経験や感情を参照する。人を殺してそれを見破られるということがどういうことなのか、経験はなくても推測はできるし、普通に考えればそこには激怒や安堵や自負や落胆や後悔といった色んな感情が混乱したままあるだろうと感じられるだろう。

だが、例えば新本格ミステリーではこうした犯罪者側の混乱した感情が描かれるということはあまりない。そのかわりに、トリックの謎解きがいかに難解で予想外で洗練されたものであるかに筆者と読者の関心は集中する。こうした「約束事」を踏まえて読者が小説を読むからこそ、新本格ファンは「犯罪者にリアリティがない」などとは言わない。(新本格を読んだことがない人は『金田一少年の事件簿』等における犯人の自白シーンを思い出していただきたい。そこでは殺人に走った犯人の感情の混乱などは余り考慮されず、金田一少年が悪を懲らしめることの爽快感に焦点があてられる。視聴者はどこかで「うそくせぇなぁ」と思いつつ、「ま、娯楽アニメだし」と言いながら勧善懲悪の鮮やかさに焦点をあてることになる)。

「約束事」があるということは、読者が自らの意味世界のうち参照するものをあらかじめ限定して小説を読むことが前提になっているということだ。したがって、「閉じた世界を描く」小説では、作品世界と読者が生きる日常世界はある程度切り離されることになる(=「絵空事」)。これに対して「世界を閉じる」小説とは、作品世界が読者の生きる世界全体の姿を映し出す鏡のようなものとして機能し、前者によって後者の意味が新たにいきいきと見出されるような作品を指す(まだ試行錯誤中の表現だが、例えば村上春樹の長編を読んだあと自分の日常を村上風の文体で描きたくなる、といった際に生じていることが想定される)。

別の視点からすれば、「閉じた世界を描く」とは、あらかじめ存在する約束事によって作品世界を完結した全体たらしめることであるのに対して「世界を閉じる」ということは、こうした約束事を前提とせずに作品世界をひとつの完結した全体としてまとめあげる、ということだ(定義がまだ足りないようにも思うが、まずはこれで)。

上で指摘した、小説の意味作用を規定するのは三つの要素(①、②、③)の関係であるという点をふまえれば、「世界を閉じる」ということがどんなに難しいことか分かるだろう。というのも、どんなに長大な小説でも読者の参照する知識や経験を全てフォローすることはできず、「約束事」なしでは、必ずどこかで不整合が生じる可能性があるからだ。

例えば、自分の経験や感情から出発して「親」という存在と子供の関係を描こうとした場合、読者にもそれぞれ異なる「親」をめぐる経験や感情があり、それへの参照をただそのまま放任する限り「親子関係とはそういうものではない、この小説にはリアリティがない」といった読者の反応は避けられない。


では、どうすればよいか?


多分こうだと思うのだが、


「作品に書かれないことも―ある種の仕方で―書けばいい」


なんだか禅問答のようだけれども、「ある種の仕方で」というのがポイント。

例を挙げよう。

羊をめぐる冒険

羊をめぐる冒険


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 我々は林を抜けてICUのキャンパスまで歩き、いつものようにラウンジに座ってホットドックをかじった。午後の二時で、ラウンジのテレビには三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた。ヴォリュームが故障していたせいで、音声は殆ど聞き取れなかったが、どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった。我々はホットドックを食べてしまうと、もう一杯ずつコーヒーを飲んだ。一人の学生が椅子にのってヴォリュームのつまみをしばらくいじっていたが、あきらめて椅子から下りるとどこかに消えた。
「君が欲しいな」と僕は言った。
「いいわよ」と彼女は言って微笑んだ。
村上春樹羊をめぐる冒険(上)』P21:第一章1970/11/25)
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ここで問題にしたいのは、第二〜第三文、テレビに映る三島由紀夫をめぐる記述である。この章のタイトルでもある1970年11月25日は三島由紀夫が割腹自殺した日にあたる。たとえそれを知らなくても、「三島由紀夫の姿が何度も何度も繰り返し映し出されていた」という記述から、多くの人はこの事件を想起するだろう。有名な人気作家が自衛隊の決起と反乱を呼びかけて演説し、さらに切腹するという過程をテレビで見る若者(上で「我々」と呼ばれているのは「僕」21歳と「誰とでも寝る女の子」17歳)。の姿が描かれる。

当時の若者にとっては、後続世代にとってのオウム事件や9.11に近いインパクトを持ったであろう事件である。当時若者だった人々(団塊の世代)がこの文章を読んでも、それを昭和の歴史を振り返るTV番組等で見たことのある若い世代が読んでも、こうした事件の生中継を見ている時には、何かしら大きなこと、悲惨なこと、滑稽なこと、要するに非現実的なことが起こってくれるんじゃないかというやや後ろめたい期待をしながら熱中してしまうものだということを想起する可能性がある。

例えば、村上春樹と同年代の会社員が定年退職して趣味で小説を書くようになり、自分の学生時代を回顧する作品を書こうとしてテレビの中の三島由紀夫を題材にしたら、多くの人はもっとディティールを書き込むだろう。作家の振る舞いや周囲の学生の様子、自らの感情のたかぶりなど。たとえ、この事件に対する自分や周りの学生の反応が総じてしらけたものであっても、そのしらけっぷりを細部に渡って書きたくなる人が多いと思われる。

だが、ここで村上は「どちらにしてもそれは我々にとってはどうでもいいことだった」の一言ですませてしまう。

不整合が起こる。「おいおい結構大事件じゃん。少しは反応するだろ普通?彼女とも何か喋るだろうし。何か不自然な小説だな」と読者が思って、ひいてしまう可能性が生じる。

しかし、ここで村上は、この文章を読んだ読者が「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」にかかわる自分の記憶を参照することを未然に防いでいる。

より正確には、彼は、読者が「社会的大事件(あるいは三島事件)」をめぐる記憶を参照する仕方を変形しようとしている。

どういうことか?

まず、上の文章の前段落で「僕」と「彼女」は次のような会話をしている。


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「あなたと一緒に寝ていると、時々とても悲しくなっちゃうの」
「済まないと思うよ」と僕は言った。
「あなたのせいじゃないわ。それにあなたが私を抱いている時に別の女の子のことを考えているせいでもないのよ。そんなのはどうでもいいの。私が」彼女はそこで突然口を閉ざしてゆっくりと地面に三本平行線を引いた。「わかんないわ」
「べつに心を閉ざしているつもりはないんだ」と僕は少し間をおいて言った。「何が起こったのか自分でもまだうまくつかめないだけなんだよ。僕はいろんなことをできるだけ公平につかみたいと思っている。必要以上に誇張したり、必要以上に現実的になったりしたくない。でもそれには時間がかかるんだ」
「どれくらいの時間?」
僕は首を振った。「わからないよ。一年で済むかもしれないし、十年かかるかもしれない」
彼女は小枝を地面に捨て、立ち上がってコートについた枯草を払った。「ねぇ、十年って永遠みたいだと思わない?」
「そうだね」と僕は言った。
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ここで描かれているのは、
「僕」と「彼女」(8年後に交通事故にあって死んでいることが冒頭で示されている)が一応カップルでありながらそれぞれの内面に問題を抱え、
その理由も対処法も分からず、相手に何かしてやりたいという気持ちを
発揮するやり方も分かっておらず、摩擦もないままどうしようもなくすれちがっているという事態である。

こうした事態が描かれた後に出現することで、三島由紀夫事件の意味合いが通常の歴史的・社会的事件としてのそれから変化させられている。

つまり、ここで意図されているのは読者が参照する先を「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」から、「社会的大事件を目撃しても何の関心も持てないほど、自分の心や対人関係が閉塞することもある」へと移し変えることである。その補助的役割を果たすものとして、「いつもの」ホットドックやコーヒーといった日常的事物の描写、音声が小さすぎるのでヴォリュームを上げようとしてあきらめた学生、といった描写がある。これらの描写は、三島事件を非日常性(祝祭性)やメッセージ性から切り離し、「君が欲しいな」「いいわよ」から始まる二者間関係の閉塞と後の彼女の死へとつながっていく。


まとめよう。


この例の場合、<作品に書かれている>のはTVに三島由紀夫が映っているという事態であり、<作品に書かれていない>のは、そこから想起される「社会的大事件を目撃した際の興奮や緊張」という読者の記憶であるに対応する表現である(もちろん、これは我々の世代も含めた村上春樹読者の最大公約数をとったときの表現であり、より政治的・文学的・ナショナリズム的なニュアンスの記憶と結びついている人々も多いだろう)。

この<作品に書かれないこと>は、「社会的大事件を目撃した際に覚える興奮や緊張」から、「社会的大事件を目撃しても興奮や緊張を覚えないほどの心と関係の閉塞」という命題の一部に組み込まれることによって、再び<作品に書かれるもの>となっている。つまり、ここでは「興奮や緊張」は不在だが、それらが不在であることは、それらを無効化するほど「強力な内への閉塞」が存在することを表している、ということだ。したがって、「社会的大事件を目撃した際に覚える興奮や緊張」を読者は一度は参照するが、その「緊張や興奮」の記憶がより強いものであるほど、それを打ち消す「心と関係の閉塞」もより強力なものとしてイメージされる。そして、この新たなイメージの内部には、不在のまま(打ち消されたものとして)「緊張や興奮」という<作品に書かれていない>ものが含まれているのである。


さらに、こうした操作を通じて、読者が生きる意味世界(経験、知識、感情等の混合体)において、「社会的大事件」と「自らの心と対人関係の閉塞」との結びつきがあ(りう)ることを強調し、そして後者が前者よりも全く重要であるような日常があ(りう)ることを強調することが可能になる。狙いが幾分かでも成功すれば、この文章は読者の生きる意味世界を幾分か以前とは違う形で組織化することになるだろう。

つまり、「世界を閉じる」作品には、小説には書かれていないけれども書かれていることから読者が想起するだろうことを作品世界の内部にきちんと組み込むことができるようなシステムが構築されている。
だから、「閉じた世界を描く」作品の場合、これを入れたらこの作品って崩壊するよなという例(ジョブナイル←紛争地の極限的悲惨)を思いつくのは比較的容易なのに対して、「世界を閉じる」作品では難しい。どのような要素を入れようとしても、元の作品世界にあわせてなんらかの調整(翻訳)をすれば問題なく入れれるように思われるものが、「世界を閉じる」ことに成功している作品ということになるだろう。


ここでの分析は、「いかに世界を閉じるか」という問いの答えとしては部分的なものに留まる。いずれまた別の側面から考えてみたい。


最後に。

小説を書くということは、<①小説に書かれた文章=読者が読む文章>自体を構築することだけではなく、書くことを通じて、①と<②読者が生きる意味世界>と<③読者による小説の読み方>の三つの要素の関係・相互作用をデザインすることである(意識的にせよ無意識的にせよ)。もちろん、これさえできればちゃんとした小説を書けるわけ(十分条件)ではないが、これができないとちゃんと読める小説は書けない(必要条件)のではないかと思う。



*注

1誤解を招く言い方になってしまったが、世の中に出回ってる全ての小説が「世界を閉じる」小説と、「閉じた世界を描く小説」に二分されるわけではない。それに、ある小説がどちらに属するのかもあらかじめ決められないし、読者によって異なる。というのも、?<読者による小説の読み方>が常に関わってるからだ。新本格の約束事を全く知らない読者のなかには、これらのミステリーをかなり奇妙な仕方で「世界を閉じる」小説として読むものもいるかもしれないし(実際、森博嗣の特に初期作は個人的にそのように読めないこともない)、村上春樹の作品群に共通した約束事を見出して「閉じた世界を描く小説」として読んでいる読者もけっこういると思う(「海辺のカフカ」ファンサイトとかの書き込みはそんな印象も受ける)。

2ここで言う「世界を閉じる」小説とは、いわゆるセカイ系とは直接の関係はない、と思う。少なくともイコールではない。後者は前者の特殊な進化系のひとつであるかもしれないが。

3「閉じた世界を描く」小説は、常に二流のエンターテイメントでしかありえない、というわけでは全くない。例えば西尾維新は、約束事を自家増殖させるなかから、それが絶対に描かれないことで作品世界が成立していた<書かれないもの>を最後の最後で書くことで「世界を開く」手法を時折使う。例えば、戯言シリーズ最終巻終末部に登場する「一般人・玖渚友」、『君と僕が壊した世界』終末部で突然ニュースに流れる爆弾テロなど。