舞城王太郎の『ディスコ探偵水曜日』について

「世界の終り」から「終わらない世界」へ

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈上〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉

ディスコ探偵水曜日〈下〉


以下前置きですのでお急ぎの方はお先にどうぞ

 ある種の文章が文学であるか否かの瀬戸際に何があるのかということについて、前から思っていたのだが、その違いは、ある種の「倫理」がその文章にあるか否かということなのではないだろうか。しかしここでいう「倫理」というのは、道徳とか常識とかそういったものではない。ここで言う「倫理」とは、「当為と快楽と欲望の三項関係を説明するある種の機械的カニズム」のことである。「当為」とは「〜すべし」ということであり、「快楽」とは、ある種の「エクソダス(解脱)」あるいは「エクセ(過剰)」のことである。古典的な意味では「幸福」に近いが、現代的な意味での「幸福」というのとは違う。現代的な意味での「幸福」というのは日常生活と切り離せないが、古典的な意味での「幸福」とは「神の祝福」あるいは「神との合一」によってこそ得られるある種の非日常を含意・前提している。「欲望」とは、快楽の欠如が当為を介して主体(従属者)を駆り立てる装置であり、それと同時にこの当為を裏切らせ、当為を脱臼させることをも可能にする装置である。したがって、ここでいう意味での「倫理」とは、この盲目の「欲望」を「快楽」へと導くための「当為」へと至るための「知」である。そして、文学に「倫理」があるというのは、その文章が、そのような「知」を内に含んでいるということだ。「内に含む」とは、つまりそのような「知」へと導くための論証や教説を明示的な仕方で解くのではなく(そのような文章はもはや文学とは呼ばない)、文章の構成(言説の形成)の方法や規則そのものが、その「知」によって支配されていることによって、非明示的な仕方で読者に対してある特定の印象を与えることになる場合を表している。勘違いしてはならないのは、この「倫理」には普通の意味での「良い」とは関係がないということである。つまり「価値判断」とは直接の結びつきがない。例えばそれは、人殺しの描写も場合によっては「倫理的」になりうる、ということを意味している。

 前置きが長くなった。今日は、ここでいう意味での舞城的な倫理についてしゃべってみたい。舞城の文章について評価すべきところは、この「倫理」の更新にある、と僕は言いたい。何からの更新かと言えば、それは「世界の終り」的な倫理からのである。「世界の終り」的な倫理とは、つまり、7−80年代的(大衆化するのは80年代という印象があるが)的な倫理であり、その先鋭としてあげられるべきものはやはり村上春樹の文章だろうと思う。ところで、「世界の終り」の倫理と、90年代末と00年初期においていわゆるロストジェネレーション世代を席巻した「世界系」的な思想(個人的には倫理と呼びたくない)との関係は、多少歴史的にもややこしいので今回は省く。


 「世界の終り」の倫理とは、単純化して述べれば、社会的なものから内向きに閉じた個人主義的で消費主義的な色彩を強くもつ倫理である。そこで問題になるのは、セックスであり、それによって得られるはずの快楽であり、食事でありそれによって得られるはずの快楽であり、音楽や芸術でありそれによって得られるはずの快楽である。そこで問題になる快楽は、基本的に個人的なものであるだろう。こう書くと大変身も蓋もないので、そんなものが文学になりえるはずもないとも思われるが、この「個人的」というファクターのパラメータの設定次第によっては、可能である。


 たとえば、村上春樹の文章の中でいつまでも僕の記憶から消えない情景は、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』の中で、(ハードボイルドのほうの世界で博士の娘として出る)「少し太めの女の子」に案内されながら博士の研究所を歩くときに、主人公が見る女の子との後ろ姿である。ちなみにこの女のことはあとでセックスをすることになる。あと、どの文章だったか定かではない(たぶん初期の作品だと思う)が、海岸線を車で走っていく場面で流れているジャズの情景がある。そして、『ノルウェーの森』で、女の子とセックスをするときにかかっている「ノルウェーの森」のレコード。あと同じても忘れられないのが、『羊』シリーズの「胡瓜」を食べる場面と、たぶん別の作品で「サンドウィッチ」を作る場面。

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)

 これらは日常のありふれたシーンにすぎないものなのだけれど、村上春樹の作品の中に登場すると、これこそが世界の存在価値そのものであるかのように見える。つまり「個人的な快楽」にすぎないものが「世界の存在理由」にまで上昇しているように思えるのである。


 それはなぜなのか。それは彼の文章の書き方が、「世界」=「僕」という設定を可能にしているからだろう。しかし、それはどのようにして? 「世界の終り」の「世界」とはあくまで「僕の世界」にすぎないが、実は「僕のではない世界」が存在しない(これはすべての「僕」の「世界」の一部に含まれてしまい、そして「僕」にとって関係のないものは、「僕」の「世界」の中では無意味になってしまう)と読者に確信させるところから、「世界」と「僕の世界」とが完全に一致させることができる。ここで読者が置いて行かれないという手法を編み出したことこそ、村上春樹が文学者でありえた重要な理由であるように思える。


 読者は、第一に否定されるのではなく、春樹的な「僕の世界」の一部として含まれる。第二に、そのように含んでいる「僕」の視点を、読者の世界がそこに一部として含まれる契機を通じて、読者が獲得する。その契機には、日常的な快楽が作用しているだろう。そして第三に、そのような視点を獲得することで、読者も新たな「僕」になる。そして、「僕の世界」は、「僕(ら)の世界」になる。しかしここで「(ら)」はあくまで表面化しない仕方でしか実現しない。それぞれの「僕」が絶対的な視点において、それぞれの「僕」を相対的にうちに含んでいるという統一的な世界像を共有することにおいて、それは実現しているので、その(ら)はあくまで不在の(ら)にすぎない。その「僕の世界」で展開される個人的な「情景」は、それこそが「世界の存在根拠」として浮かび上がる。そして、その過剰な快楽が、読者に中毒症状を引き起こす。その症状が、自分も春樹的な文章が書けるという確信である(この確信はほぼ100パーセント裏切られる。なぜなら、その効果を生み出したのは、自分が感じている個人的な情景ではなく、個人的な情景を世界の存在根拠にまで押し上げる村上春樹の文章構成方法にあるからである)。


 したがって、春樹的な文章は、実存的であるということができるだろう。しかしそれはサルトル的な意味ではないだろう。サルトル的な実存とは、社会的なものを個人的な快楽に変換する装置である。60年代的なものはこの装置によって動いていたような気がする。春樹的な文章は、そういったものを否定するべきだという衝動によって動いているような気がする。彼の倫理観は、社会的なものを個人的な快楽に変換することのある種の汚らわしさに対する攻撃なのではないか。そこから、個人的な快楽から出発して、(僕の)世界について思い悩む転倒した実存主義が生じているような気がする。
ところで、この「世界」では、「女」の役割は、常に外的でしかない。悩むのは常に「僕」であって、「女」は、その「僕」の「世界」の一要素にすぎないからである。だから春樹は「女」を書くことができないのではないか。ここで「女」とは「他者」の具体化された要素である。春樹の文章には「他者」がない。その「他者の欠如」が90年代以降の彼の文章を支えていたものであったような気がする。

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)


 春樹と舞城の間に、「世界系」の話を入れないとやはり不十分だが、今は端折って先を急ごう。


 舞城はそれに対して対比的に書くならば、世界そのものというフレームがもつ快楽を媒介することによって、個人的なものから個人的でないものへと抜けるべしという当為(命令)を発しているのではないか。『ディスコ探偵』以前の作品においても、この「べし」までは行けていたような気がする。例えば『阿修羅ガール』がその例だ。これを単に「べし」と発するだけでなく、読者と共に自らに対して「べし」と言うというところまで行くことが、ここ最近の、たとえば『九十九十九』と『ディスコ探偵』との共通のテーマな気がする。『ディスコ探偵』ではだいぶ読者を減らしてしまったかもしれないが、少なくともこのテーマはうまくいっているのではないか。少なくとも『九十九十九』よりはうまくいっている。その一つの理由には、名探偵との距離感とか、主人公が直面し続ける無能力とかその辺の設定がうまく効いていることがあるだろう。具体的な分析はまた今度にして、大枠について述べてしまおう。

阿修羅ガール (新潮文庫)

阿修羅ガール (新潮文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

九十九十九 (講談社文庫)

 舞城の文章は、多くの場合がそうだが、最初の数ページは、春樹的な「個人的な快楽から世界の存在根拠へ」的な手法を使う。この手法の縮約の度合がなかなか大したものなのは、ここ30年の間に春樹的な手法が様々なメディアで繰り返し用いられてきたことによるのだろう。少なくとも、作者である舞城とほとんど同じ時代を生きてしまっている読者にとって、その高速度の処理は特に苦にならないだろう。これによって、一気に「僕の世界」を現出させる。舞城の文章の本領はここから始まる。すなわち、この「僕の世界」から「僕」を追放する、あるいは、世界のほうのフレーム自体が世界の中に現れることで、世界のほうが矛盾をきたし破綻することで、僕がそこから外部に放出される。『九十九十九』では、この運動は「清涼院流水」という作者というメタオブジェクトの力借りることによって受動的な仕方で遂行する。能動的になるのは、この作品の最後の章だけであって、それ以外は受動的なままである。


 『ディスコ探偵』のほうは、この運動を、主人公以外の人物(いわゆる「名探偵キャラ」)が代行することによって、受動性そのものが受動化され外化され、そのせいで、その受動性を乗り越える能動性のほうが、主人公のほうに返されることになる。そうすると、「世界を壊す」=「世界を乗り越える」=「自らの矛盾に自ら目を向ける」という思考作用が能動化される。ただし、この水準に読者をうまく巻き込むだけの装置がまだ開発されていない感じがある。この作業に耐性のある人(この作者がこれに長けていることは言うまでもない)はまだしも、そうでなければ混乱するか、なんともいえない徒労感に襲われるのではないだろうか。この装置を開発することにもし仮に舞城が成功したとすれば、それは大変なことだ。


 自らの矛盾に自ら目を向けて、自らの世界を自ら壊すという作業において信仰されているのは、その先に広がる新たな世界の存在であり、そこにはすでに存在しない私以外の「他者」である。そして、この構図こそ、『ディスコ探偵』の下巻の最大の主題であるだろう。ここでこの「他者」は、「子供」である。ここにある種の「生殖モデル」が入り込んでいることは間違いない。(「他者=子供」と「生殖」ということに関しては、次を参照されたい

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

)。しかも、それは「世界」そのものによる「生み」と「死」の行為である。その先には「僕」は行けないというのがさらに重要なポイントである。つまり「僕」は死にゆく世界と共に、消え去ることを自ら選択するということである。それこそが「他者」への信仰でなくて何なのか。「僕の世界」=「世界の終り」的な倫理からすれば、これは最大の悪であるだろう。子供はいてはならないのである。それに対して、「自ら壊れゆく世界」=「終わらない世界」的な倫理からすれば、これこそが最大の善であるだろう。個人的な私は否定され、消尽され、それによって私ならざる他者(子供)が生み出されることが全力で持って肯定される。


 舞城の文章が文学であるとすれば、それはこのような倫理の変更をやってのけたことにあるのではないか。