「リアルの崩壊」3:9.11


前回の記事については、多くの感想をいただいた。その中で、まだ上手く言えていない部分が明確になってきたので、ポイントだけ示しておきたい。ただし、まだアイディアメモの段階であり、本文はいずれ書く予定。

前回の文章には次のような箇所がある。

9.11の映像は、もしもそれが映画であったならば、『ジュラシック・パーク』などの「よりリアルな現実」を追い求めるフィクションの系譜に間違いなく連なるものであった。しかし、これらの作品が差し出す「よりリアルな現実」は、常に「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎません」というエクスキューズを伴っている。そうである限りにおいて、我々は安全に快適に「よりリアルな現実」を求めることができたのだ。しかし、9.11の映像にはエクスキューズがない。

この箇所の含意は、9,11の映像が持ったインパクトは、その映像がハリウッド大作で描かれていたような事態――テクノロジーに囲まれた我々の日常生活(我々が普段「現実」だと思っている現実)のフィクショナリティ(虚構性)が暴かれ、「より本物の現実」が顕在するという事態――がフィクションではなく現実に起こったことに由来する、ということではない。ただ、前回の文章はこの点で誤解を招きやすいものであったし、書いた本人もまたその含意を明確に把握することができていなかったのは確かだ。色々と考察しなければならないことは多いが、一つだけ書いておくことにする。

「9.11の映像にはエクスキューズがない」ということの含意は、9.11の映像には「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎません」というメッセージが含まれていないということではない。そうではなくて、このメッセージが確かに発せられていて、しかしそれはエクスキューズとして機能しなかったということだ。おそらく我々がそこから受け取ったメッセージは「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎませんが、でもだからこそこれは現実なのです」といったものだったのだと思う。操作可能なシュミレーションの具体化としてのみ現実が構成され、そのプロセス自体は操作不可能であるという事態。そこでは、テクノロジーとフィクションの接合による運動を介して絶えず彼方に設定される「より本物の現実」に近づこうとする90年代後期の衝動が、あっさりと脱臼されている。そのような運動そのものを離れたところに「現実」などありえない、ということが端的に示されてしまう、そういった事態がこのとき生じていたのではないかと思う。

まださっぱりわからない表現だと思う。いずれ近いうちに、頭を整理して、考察を続ける。

[続く・・・]