セカイ系の基本構造(暫定案)


以前書いた文章を採録する。今読むとまだまだ手探りの状態で行われた大雑把な考察で、論点がずれているところも少なくないように思われる。だが、踏み台としては使用できるかもしれない。再検討し、論点を洗い出し、あるいは問いの再設定を行うための素材としてアップしておく。


タイトル:「セカイ系フィクションの基本的構造」


<物語の機能>
「私がこの世界で生きていることには意味がある」
ということを肯定したい(されたい)という思春期的な欲求を充足する。

<物語の構造>
「私(=主人公)」が「この世界(=作品世界)」
で生きていることの意味が、
「私」と「あなた=他者」の関係を通じて
獲得されていく軌跡が描かれる。

論理的に言うと、
この軌跡は、
A<私にとっての私>と
B<世界にとっての私>が
C<私と関係する何か/誰か>を媒介としながら、
徐々に一致していく軌跡となっている。


セカイ系を考える上でまず次の二つの論点を挙げる。


第一に、こうした物語と同型の構造は思春期的な経験に一般的に見られるものであること。例えば、他人には取るに足らないと思われること(軽い失恋、友人関係の捩れ、自分の容姿の醜さ、身体的欠損)をまるで自分の生きる意味全てを否定するものであるかのように感じる(あるいはそれによって自殺したりもする)中学生。この場合、これらの些細な事柄が<私にとっての私>と<世界にとっての私>をむすぶ唯一無二の媒介項となってしまっているために、事柄の些細さにも関わらず当人にとっての影響は甚大なものとなる。つまり、「私はこうありたい」と思っているにもかかわらず私以外の人々(=世間)からみれば全くそうではないかもしれないという特定しえない無数の可能性が、私と特定の何かとの関係にすりかえられる。そのため、この何かが<私にとっての私>と<世界にとっての私>の一致を可能にする(あるいは阻害する)究極的な要因であるかのようにイメージされることになる(「君と一緒になれるなら他には何もいらない」、「君に振られたら僕は生きてはいけない」あるいは「ワキガの臭い私には生きている意味などない」)。


しかしながら、


第二に、こうした物語と同型の構造は思春期的な領域にもはや限定されたものではなく、まさに現在稼働中の様々なコミュニケーション様式に取り入れられているということ。例えば、主要SNSサービスの一つであるMIXI。その個人トップページにはまず本人の書いたプロフィール(:「私にとっての私」)が配置され、その下に友達の書いたその人の紹介文(:「世界(=世間)にとっての私」)が配置される。さらに日記記載ページでは、まず本人が自分の日常的な出来事や心情をつづった文章(:「私にとっての私」)が置かれ、その下に、友達が当の出来事や心情についての感想を記載する(感想の集合が「世界にとっての私」を構成していく)。そして、トップページにおいても日記ページにおいても、二つのパートが友人関係を媒介として重ねあわされていく。この媒介が有効に働いたときには、「私にとっての私」と「世界にとっての私」が次第に調和していき、「私がこの世界で生きていることの意味」が生み出されていく。この意味創出は、二つの「私」を媒介する友人関係がより広範により密接に作られるほど効果的になる。そのため、MIXIでは友人の友人や公的な知り合い(職場の同僚・上司・後輩)や本来友人にはカウントされるはずのない血縁者(親兄弟)までもが友達=「マイミク」として動員されることになる。


後者の含意は、セカイ系的な(自己)語りの構造が今では思春期特有の病として切り捨てられるようなものではなくなりつつあるということ。言い換えれば、思春期以降セカイ系的な語りの構造に代わって機能してきたはずの語りの構造(これをとりあえず「シャカイ系」と呼んでおく)がもはや機能しなくなりつつあるのではないかということ。問題は、コミュニケーションの形式にセカイ系的な構造が入り込むことを必然的たらしめている基本的な条件の変化は何なのかということだ。


追記:市民的個人、家族、会社、国家といった中間項が、自分が生きる意味を考たり他人の心を動かす物語を作るときの基本的な根拠としては限りなく胡散臭くなってきた結果、「私」が日常的に関係している具体的な何かに依拠しながら世界と私の関係を構築していくということが強いリアリティを持ってくる。たしかに狭義のフィクション類型としての「セカイ」系の隆盛は、こういった変化の帰結として理解することができるのかもしれない。


ただし、上の文章で考えたかったこと、あるいはセカイ系フィクションのポジティブな可能性として見出したいものはもう少し別のことでもある。上で仮説的にモデル化したように、セカイ系における「私(の生きる意味)」が、「私にとっての私」と「世界にとっての私」を一致させる努力からのみ生み出されうるものであるならば、「私」はけして確かなものではありえない。私は「私以外の全てのもの」をコントロールすることなどできないし、「私以外の全てのもの」にとっての私は「私にとっての私」から常にズレ続けていく。 つまり、「世界にとっての私」と「私にとっての私」がいつも齟齬を孕んだものである以上(もしそうでなければ世界=私であり、そのような存在が語る言葉は人間の言葉として流通しない)、両者の相互作用によって生み出される「私」は常に不確かなものでしかありえず、それを軸に世界に立ち向かうことなどできはしない。だからこそ、「私と世界を媒介する何か」が媒介として立てられる必然性がある。もし、この「何か」が完全に私の所有物であり私と同一化したものであるならば、「私」は確かなものとなる。しかし、そのときにはもはやその「何か」は私と世界を媒介する力など持たないだろう。それは「私にとっての私」の一部でしかなくなるのだから*1。もちろん、この帰結を隠蔽しつつ、「私と世界を媒介する何か(ex恋人)」が「私からみた私」の一部(ex死んだ恋人の記憶)になっていく過程を描くことで「私にとっての私」と「世界にとっての私」がさも一致していくように感じさせることはできるが、それはある種の詐術でしかない。私がポジティブに評価できないセカイ系ファクションはこのような構造で作られたものである。


「私と世界を媒介する何か」を「私」が完全にコントロールすることはできない。むしろそれを支配したいという欲求とそれに支配されたいという欲求の間で「私」は宙吊りにされ分裂する(ワキガに絶望する女子中学生にとって問題なのはワキガの臭さが私のものでありながら私のものではないことにある)。この点で、「家族」も「国家」も「エスニシティ」も、「恋人」や「ワキガ」と変わりがない。これらはいずれも中間項として機能する。セカイ系を批判してよくいわれる「中間項がなく世界と私がべったりくっついている」という指摘はこの点で的外れだ。特定の中間項を媒介にした「私」の意味生成を無闇に信じ込んでいるために、中間項がないように見えてしまうのだろう(もちろん、前述した中間項が私に同一化していく過程によって成り立つ物語にはこの批判は妥当するだろうが)。 ただし、もう一つよくある批判「セカイ系には他者がいない」という指摘に反論することは簡単ではない。簡単に中間項とは他者であるとはいえないだろう。むしろ、ここで考えたいのは、「私と関係する何か」が私の一部とならないままに「私にとっての私」と「世界にとっての私」を媒介する作用を起こしえたとき、それは「他者」として立ち現れ、同時に世界自体がある種のかたちで組み替えられるという可能性である(ここで想定しているのは、例えば西尾維新戯言シリーズ」最終巻ラストでのヒロインの描写など)。

*1:ここで述べているような「常にズレつづける私」という事態は、われわれが「二人称」という言葉で指そうとしている状況と密接に関係しているようにも思われるが、どうだろうか?