「リアル」の崩壊1:90年代の精神


90年代には、「リアルである」ということがある種の特権的な力を持っていたような印象がある。それは80年代的ではないということでもあり、これからの時代を駆動し、新たにもっとワクワクするような世界が現れる、現れて欲しいという欲望とつながっていた言葉だったように思う。その雰囲気を如実に伝えてくれる文章として、まずは地下鉄サリン事件の一年前に書かれた、以下の文章を引用したい。

[中沢新一「リアルであること」p6-p11『朝日新聞』1994年3月掲載] 単行本→asin:4839830029

ベルリンの壁が崩壊したとき、ぼくたちはテレビの映像にくぎづけになった。そのときは、テレビのあの平面的で、表面的な画像が、まったく時代にふさわしいものに見えたものだ。いままでごまかしたり、隠したりされてきた、多くの情報が公開されるようになった。あのとき世界は、深さのないテレビ映像とともに、すこしだけ「客観」にむかって、前進したように思えたのである。
不思議なことに、ぼくはあのとき以来、あんなに好きだった映画にたいする興味を、急速に失った。幻想に幻想を重ね、夢に夢を重ね、意味に意味の厚みをふやしていくようにつくられている、すべての表現に、げっそりしはじめたのだ。
現実とのあいだに、たくさんのお金をかけて、新しい魅力的なベールをつくりだすことよりも、すがすがしい朝の空気のような、薄い透明な層だけをとおして、リアルにふれていたい。そのリアルを厚ぼったい物語にかえる、政治の神話も必要はないし、スピルバーグ的な映像の、偽善っぽい虚構もうっとおしいばかりだ。
夢やヴァーチャル・リアリティのなかで、生命を消費していくよりも、自分の生命を、リアルな実在として、生きはじめてみたい。ときには、自分のなかにうごめいている、いっさいの夢の進行をストップさせて、そのときに現れてくる世界の裸のからだに、素手で触れて、それをなでたり、さすったりしてみたい。それが、あのベルリンの壁の崩壊や、ソ連の解体とともにはじまった、九十年代の精神ではないのだろうか。
[・・・]
人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命とのリアルな接触ということだ、とぼくは思う。いまのところ宗教は、科学よりも、それに応える能力の点ではまさっているところもある。しかし、それにほんとうの意味で答えることのできる宗教というのはいま人々をひきつけている自分の魅力のほとんどを、みずから否定することができ、自分が宗教であることをのりこえることができたものだけだ。
残念ながら、そういうものはまだ生まれていない。もちろん、生まれるきざしはある。人々のあいだに生まれている、「死」に対する深い関心に、そのことがよくあらわれている。「死」こそが絶対のリアルだからだ。ぼくたちは、死ぬことによって、かならずそれに触れる。そして、昔から、人間は「死」というその絶対のリアルをとおして、生きていることの意味を、考えることができた。
ところが、無思想につきうごかされたまま、無明の発展をとげている、いまの技術主義の医学や、死のリアルとの接触をおそれる、臆病なブルジョア精神の蔓延によって、ぼくたちはそれから、できるだけ遠ざけられている。現代の世界には、分厚い「底」のようなものがあって、それがリアルの侵入をふせいでいる。
イデオロギーは消えたけれども、こんどは世界は総力をつくして、そのじょうぶな「底」を維持しつづけ、巨大な夢の自己回転を、つづけていこうとするようになった。いやむしろ、ヴィジョンをなくして、保守的になった分だけ、人間をリアルからへだてる、その「底」は分厚いものになりつつあるのではないか。
人間に、自分の生命のリアルとの触れあいを可能にしていく、別のやり方を、僕は創造したいと願っている。ぼくは、いっさいの幻想を、人間の意識からぬぐいさってしまいたいのかも知れない。世界の裸体は、ほんとうに美しい。その裸体を自分が所有したいとか、思い通りにしたいとか、思ったとたんに、裸の美女は消えてしまう。ぼくたちは、リアルとの、真実の性交を求めているのだ。」

90年代末、19か20やそこらでこの文章を読んでたら、私はおそらくそれなりに心動かされていただろう。だが、今読むと恥ずかしいだけであり、なにか本当にどうしようもない、という感覚に襲われる。この変化はどうやって起こったのか、「90年代のリアル」はいかに変質し、崩壊したのか、それを次に考えたい。