「リアル」の崩壊2:より本物のリアル



90年代の「リアル」について、一つ思い出したのだが、それは必ずしもフィクション一般に対する忌避を伴ってはいなかったということだ。むしろ、「リアル」はフィクションにおいても追求されていたのではなかったか。例えば、1993年に公開された『ジュラシックパーク』に代表されるようなCG技術のインパクトは、当時の観客にとってかなり強烈なものだったように思う。(実際には、この映画に登場する恐竜の大半はアニマトロニクスで作られており、VFXが使用されているシーンはそれほどなかったわけだが)。


観客の中には、その「リアリティ」に驚き、興奮し、ついにこんな映像が可能になったのかと驚嘆した人も少なくなかっただろう。しかし、不思議なことではないか。彼らは、一度も恐竜を見たことはないのだから、「まるで本物みたいだ」などと言えるわけがないのだ。少なくともそれは本物の恐竜との比較によって感覚されたリアリティではない。CGの恐竜は何故「リアルだ」と感覚されたのだろうか。


よく分からない。しかし、分からないなりに考えてみよう。CG自体の質感や知覚経験の問題もあるとは思われるが、ここでは物語の構造におけるCGの役割に論点を絞って分析することにする。一般にSF的な設定に基づくフィクションの醍醐味は、非現実な何か(宇宙人、タイムマシン、ロボットなど)の登場によって現実の土台となる法則性がすっかり変貌し、現実的な諸要素が次々に異化されていく、そのダイナミズムにある。もちろん『ジュラシックパーク』にもこうした側面はある。だが、(少なくとも個人的には)この映画のインパクトの中心にあったのは、その逆の事態ではなかったかと思われる。典型的なのは、本作で繰り返される「恐竜に襲われる」シーンの強烈なリアリティである。恐竜は動物であり、恐竜の前では人間もまた捕食対象となる動物でしかない。先端テクノロジーを集結して構築されたパークの諸装置が機能不全に陥ったとき、一切のテクノロジーから分離された現代人が地球上の生物のなかで最弱の部類に入る動物でしかないという動かしがたい「現実」があらわになる。映画館のスクリーン上に「再現」された恐竜は(地上最強の捕食動物が生身の人間の前に立つという図式を忠実に映像化することによって)、この「現実」を体感させる必須の役割を果たす限りにおいて、「リアルだ」と感覚されたのではなかったか。恐竜は現実を異化するフィクショナルな存在として活躍したのではなく、むしろ、テクノロジーに囲まれた我々の日常生活(我々が普段「現実」だと思っている現実)のフィクショナリティ(虚構性)を暴き、「より本物の現実」を顕在させる役割を担ったのだ。だからこそ、動物としての恐竜の大きさや早さや強さが強調されたのであり、それは恐竜に対峙する生身の人間の小ささや遅さや弱さを表現するためにこそ精緻なものでなければならなかった。

しかし、ここには逆説がある。先端テクノロジーによって構築されたパークの虚構性を暴き、動物としての人間の「本物のリアル」を描くこの作品の映像を可能にしているのは、CGやアニマトロニクスなどの先端テクノロジーに他ならないのである。「よりリアルなもの」あるいは「より自然なもの」を掴み取ろうとする衝動が、より人工的でテクノロジカルな装置の活用によって駆動されていくというこの逆説は、例えば90年代に勃興したレイブ・カルチャーにも共通する性格である。そこでは、アンプや巨大スピーカーやターンテーブルが山や海岸などのできるだけ「自然な」環境に持ち込まれ、人工的に強化された電子音に貫かれて踊る人々が「自然との合一」を熱く語るという逆説的な状況が生じていた。テクノロジカルな媒介を用いて無媒介的な「リアル」との接合が夢見られる。それによって担保されるのは、「より本物の現実」へと向かう自らの運動がけして終わることはないという人々の幻想である。そして、こうした運動への全面的な信頼は、結局のところ80年代的な「複数の虚構の間を横滑りしていく快感とそれを生み出す技術」の変奏であり偽装形態でしかなかったのではないかとさえ、今では思う(水平軸の「なんちゃって」感に駆動された横滑り→垂直軸の「よりリアルである」感に駆動された横滑り)。

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テクノロジーとフィクションの接合によって「より本物の現実」に近づこうとする傾向は、『ジュラシック・パーク』の数年後に作られた一連のハリウッド大作、とりわけ『ツイスター』(1996年)、『ディープ・インパクト』(1998)、『アルマゲドン』(1998)』といったディザスター・ムービーにも見られる。おそらく、こうしたフィクションに向けられていた欲望、こうしたフィクションをリアルなものと感覚させる条件となっていた欲望を把握することが、9.11同時多発テロが人々(とりわけ、イスラム原理主義グローバル資本主義をめぐる世界情勢など全く知らないままTVであの事件を目撃した人々)に与えた影響の一側面を理解する上で必要なのではないかと思う。つまり、この事件が持ったインパクトは、よく言われる「映画で描かれるような出来事が現実に起こってしまったことの衝撃」といった語り口では全く説明できないのではないか、ということだ。むしろ、そこで生じたのは、<「より本物の現実」へと向かう運動が、結局のところは、テクノロジーと結びついた虚構構築技法のフル活用を通じて、自らを「本物のリアル」へと近づけると同時に遠ざける運動だったのであり、「本物のリアル」を鑑賞する安全で快適な立ち位置に自らを再配置し続けることによってのみ可能となる運動でしかなかった>ということが徹底的に暴露される、という出来事だったのではないだろうか。


煩雑な表現になった。もっと簡単に言おう。9.11の映像は、もしもそれが映画であったならば、『ジュラシック・パーク』などの「よりリアルな現実」を追い求めるフィクションの系譜に間違いなく連なるものであった。しかし、これらの作品が差し出す「よりリアルな現実」は、常に「これはフィクションです=操作可能なシュミレーションの一つにすぎません」というエクスキューズを伴っている。そうである限りにおいて、我々は安全に快適に「よりリアルな現実」を求めることができたのだ。しかし、9.11の映像にはエクスキューズがない。スクリーンの外部がない。安全な距離感がない。にも関わらず、それは「よりリアルな現実」を求める我々の欲望を強烈に刺激する映像でもあった。この両義性が、完全なダブルバインドとなって我々を襲ったのではなかったか。つまり、あの映像は、我々の欲望を刺激し「よりリアルな現実」を求める運動へと向かわせながら、同時に、その運動を快楽として感受することを可能にしてきたテクノロジカルな虚構性さえ突き破られてしまうということがあるという致命的な事実をつきつけたのではなかったか。換言すれば、確かに9.11は「フィクションで描かれていたことが現実に起こった」という出来事であったとも言える。しかし、そこで実際に起こったのは、『ジュラシック・パーク』や『アルマゲドン』でフィクショナルに描かれていた「フィクションとリアルの関係」が現実化したということではなかったか。『ジュラシック・パーク』で描かれる<(パークを成立させる種々の機械に代表される)テクノロジカルな装置によって保たれていたフィクショナルな現実が崩壊し、生身の「本当のリアル」が目の前につきつけられる>という事態は、単なる旅客機がツインタワーに激突することで多くの人命が失われ世界経済と国際政治が恐慌に陥るという9.11が生み出した事態と、同型のものである。しかし、前者にあって後者にないものがある。それが「これはフィクションです」というエクスキューズであり、テクノロジカルな虚構性の崩壊による「よりリアルな現実」への到達が当のテクノロジカルな虚構性によって支えられ守られているという二重構造が生み出す安心感である。『ジュラシック・パーク』の「本当のリアル」がテクノロジカルで操作可能な可能性の提示であるからこそ快適なワクワク感を醸しだすのに対して、9.11という出来事は、そのテクノロジカルで可能性に溢れる操作の総体自体がどうしようもなくこの世界そのものであるという「どうしようもないリアル」を決定的に提示した出来事であったのではないだろうか。


ふむ。まだまだ考えすぎの読み込みすぎの言葉足らずの考察にも思える。おそらく、いくつかの要素をスキップして分析してしまっているのかもしれない。精緻化は後の課題として、最後に一つだけ書いておきたい。今回の考察は、以前に引用した中沢新一のエッセイが当時持っていたような新しさや過剰さが今読むと全く感じられないということと密接に関係している。9.11という現象自体がどういったものであったのかが重要なのではなく、それがどう受け取られたかが問題なのだ。そこでは、中沢氏の文章に当時ひきつけられた人々が持っていたであろうようなある種の欲望が、全くの空転を起こしたのではなかったのか。いまだ印象論の粋をでないこの文章の最後に、もう一つだけ印象論をつけ加えたい。1993年の中沢氏による「人間がいまほんとうに求めているものは、自分の生命とのリアルな接触ということだ」という語り口と呼応していた欲望の行き着く先の一つが常習的な「リストカッター」の登場だったのではないかということである。「よりリアルな現実」を追い求める結果、自分の肉体の原初的な条件を破壊する一歩前まで至る行為をただ反復するだけの状態に陥るという事態、そのどうしようもない閉塞感。中沢氏の文章が当時(読み手に誤読されたにせよ)発していたより魅力的な世界への期待が、みもふたもない密室で世界は出来ているという醒めた感覚に取って代わられる。こうしたシフトチェンジが90年代から00年代に至るなかで起こったのではないか、ということである。とはいえ、まだまだ仮説でしかないし、説得力もあまりないと思う。年代論を振りかざすのは便利すぎて危険だ。実感ベースの話でしかないというのも事実だ。しかし、実感に端を発する言葉を丁寧に一般化していくこともまた、ひどく大事なことだと考えている。

MushMushMush

マッシュの例
なぜ全部パヒュームなのかというのは、パヒュームの音楽性の問題もないわけではないが、選択の好みも大きい。

マッシュを調べてたら大量の《ヨシイクゾウ》が出てきた。やっぱ彼はすごいのだろうか。

間違いなくこんだけ《ヨシイクゾウ》を聞いたのは生れて初めてだ。いったい 何の情念だ、こりゃ。

今回のネタとは関係ないが単純にベースソロがカッコよかったので。

DataBassRepresentationSysteme【データベースルプレザンタシオンシステム】

youtubeで、90年代までのベース音の情報整理をしていたのだが、これが簡単にできるということが、そもそも90年代とは根本的に違っているのではないか。

違いは、《流行》とか《先端》とかいう用語を支えている表象システムの違いとしても理解できるような気がする。

80年代にいおて《流行》は、中央の大メディアが上から投げ与えるものであったように思う。
90年代において《流行》は地下から発掘してくるものだった。

どちらにしても、《中心と周縁》という構図ははっきり出ていて、中心の場所が、《中央》か《地下》かということの違いがあるだけ。もちろん、《地下》は、《リアル》と直結している。

これは、《ない》と《ある》の間の非対称性から可能になる距離のゲームにすぎない。

00年代以降、流行は回帰にとって代わったようにも見えるが、実はそうではなくて、それを支えているメディアの構造が、根本的に変容しているのではないのか。

回帰に見えるのは、データベースへの参照であって、重要なのは、参照の仕方であって、概念としては《マッシング》(Mashing)という操作が、根本的に重要なのではないのか。

では、《データを集めてつぶして新たなデータを作ること》これは、90年代的感性からすると、《無意味》以外の何物でもないが、おそらくそうではないのだろうと思う。別のリアリティ。80年代的な分散表象的リアリティによく似ているが、たぶん全く違う何か。

よくわからん。

セカイ系の基本構造(暫定案)


以前書いた文章を採録する。今読むとまだまだ手探りの状態で行われた大雑把な考察で、論点がずれているところも少なくないように思われる。だが、踏み台としては使用できるかもしれない。再検討し、論点を洗い出し、あるいは問いの再設定を行うための素材としてアップしておく。


タイトル:「セカイ系フィクションの基本的構造」


<物語の機能>
「私がこの世界で生きていることには意味がある」
ということを肯定したい(されたい)という思春期的な欲求を充足する。

<物語の構造>
「私(=主人公)」が「この世界(=作品世界)」
で生きていることの意味が、
「私」と「あなた=他者」の関係を通じて
獲得されていく軌跡が描かれる。

論理的に言うと、
この軌跡は、
A<私にとっての私>と
B<世界にとっての私>が
C<私と関係する何か/誰か>を媒介としながら、
徐々に一致していく軌跡となっている。


セカイ系を考える上でまず次の二つの論点を挙げる。


第一に、こうした物語と同型の構造は思春期的な経験に一般的に見られるものであること。例えば、他人には取るに足らないと思われること(軽い失恋、友人関係の捩れ、自分の容姿の醜さ、身体的欠損)をまるで自分の生きる意味全てを否定するものであるかのように感じる(あるいはそれによって自殺したりもする)中学生。この場合、これらの些細な事柄が<私にとっての私>と<世界にとっての私>をむすぶ唯一無二の媒介項となってしまっているために、事柄の些細さにも関わらず当人にとっての影響は甚大なものとなる。つまり、「私はこうありたい」と思っているにもかかわらず私以外の人々(=世間)からみれば全くそうではないかもしれないという特定しえない無数の可能性が、私と特定の何かとの関係にすりかえられる。そのため、この何かが<私にとっての私>と<世界にとっての私>の一致を可能にする(あるいは阻害する)究極的な要因であるかのようにイメージされることになる(「君と一緒になれるなら他には何もいらない」、「君に振られたら僕は生きてはいけない」あるいは「ワキガの臭い私には生きている意味などない」)。


しかしながら、


第二に、こうした物語と同型の構造は思春期的な領域にもはや限定されたものではなく、まさに現在稼働中の様々なコミュニケーション様式に取り入れられているということ。例えば、主要SNSサービスの一つであるMIXI。その個人トップページにはまず本人の書いたプロフィール(:「私にとっての私」)が配置され、その下に友達の書いたその人の紹介文(:「世界(=世間)にとっての私」)が配置される。さらに日記記載ページでは、まず本人が自分の日常的な出来事や心情をつづった文章(:「私にとっての私」)が置かれ、その下に、友達が当の出来事や心情についての感想を記載する(感想の集合が「世界にとっての私」を構成していく)。そして、トップページにおいても日記ページにおいても、二つのパートが友人関係を媒介として重ねあわされていく。この媒介が有効に働いたときには、「私にとっての私」と「世界にとっての私」が次第に調和していき、「私がこの世界で生きていることの意味」が生み出されていく。この意味創出は、二つの「私」を媒介する友人関係がより広範により密接に作られるほど効果的になる。そのため、MIXIでは友人の友人や公的な知り合い(職場の同僚・上司・後輩)や本来友人にはカウントされるはずのない血縁者(親兄弟)までもが友達=「マイミク」として動員されることになる。


後者の含意は、セカイ系的な(自己)語りの構造が今では思春期特有の病として切り捨てられるようなものではなくなりつつあるということ。言い換えれば、思春期以降セカイ系的な語りの構造に代わって機能してきたはずの語りの構造(これをとりあえず「シャカイ系」と呼んでおく)がもはや機能しなくなりつつあるのではないかということ。問題は、コミュニケーションの形式にセカイ系的な構造が入り込むことを必然的たらしめている基本的な条件の変化は何なのかということだ。


追記:市民的個人、家族、会社、国家といった中間項が、自分が生きる意味を考たり他人の心を動かす物語を作るときの基本的な根拠としては限りなく胡散臭くなってきた結果、「私」が日常的に関係している具体的な何かに依拠しながら世界と私の関係を構築していくということが強いリアリティを持ってくる。たしかに狭義のフィクション類型としての「セカイ」系の隆盛は、こういった変化の帰結として理解することができるのかもしれない。


ただし、上の文章で考えたかったこと、あるいはセカイ系フィクションのポジティブな可能性として見出したいものはもう少し別のことでもある。上で仮説的にモデル化したように、セカイ系における「私(の生きる意味)」が、「私にとっての私」と「世界にとっての私」を一致させる努力からのみ生み出されうるものであるならば、「私」はけして確かなものではありえない。私は「私以外の全てのもの」をコントロールすることなどできないし、「私以外の全てのもの」にとっての私は「私にとっての私」から常にズレ続けていく。 つまり、「世界にとっての私」と「私にとっての私」がいつも齟齬を孕んだものである以上(もしそうでなければ世界=私であり、そのような存在が語る言葉は人間の言葉として流通しない)、両者の相互作用によって生み出される「私」は常に不確かなものでしかありえず、それを軸に世界に立ち向かうことなどできはしない。だからこそ、「私と世界を媒介する何か」が媒介として立てられる必然性がある。もし、この「何か」が完全に私の所有物であり私と同一化したものであるならば、「私」は確かなものとなる。しかし、そのときにはもはやその「何か」は私と世界を媒介する力など持たないだろう。それは「私にとっての私」の一部でしかなくなるのだから*1。もちろん、この帰結を隠蔽しつつ、「私と世界を媒介する何か(ex恋人)」が「私からみた私」の一部(ex死んだ恋人の記憶)になっていく過程を描くことで「私にとっての私」と「世界にとっての私」がさも一致していくように感じさせることはできるが、それはある種の詐術でしかない。私がポジティブに評価できないセカイ系ファクションはこのような構造で作られたものである。


「私と世界を媒介する何か」を「私」が完全にコントロールすることはできない。むしろそれを支配したいという欲求とそれに支配されたいという欲求の間で「私」は宙吊りにされ分裂する(ワキガに絶望する女子中学生にとって問題なのはワキガの臭さが私のものでありながら私のものではないことにある)。この点で、「家族」も「国家」も「エスニシティ」も、「恋人」や「ワキガ」と変わりがない。これらはいずれも中間項として機能する。セカイ系を批判してよくいわれる「中間項がなく世界と私がべったりくっついている」という指摘はこの点で的外れだ。特定の中間項を媒介にした「私」の意味生成を無闇に信じ込んでいるために、中間項がないように見えてしまうのだろう(もちろん、前述した中間項が私に同一化していく過程によって成り立つ物語にはこの批判は妥当するだろうが)。 ただし、もう一つよくある批判「セカイ系には他者がいない」という指摘に反論することは簡単ではない。簡単に中間項とは他者であるとはいえないだろう。むしろ、ここで考えたいのは、「私と関係する何か」が私の一部とならないままに「私にとっての私」と「世界にとっての私」を媒介する作用を起こしえたとき、それは「他者」として立ち現れ、同時に世界自体がある種のかたちで組み替えられるという可能性である(ここで想定しているのは、例えば西尾維新戯言シリーズ」最終巻ラストでのヒロインの描写など)。

*1:ここで述べているような「常にズレつづける私」という事態は、われわれが「二人称」という言葉で指そうとしている状況と密接に関係しているようにも思われるが、どうだろうか?

ヴィンテージトレモロ

別に名前の由来は「ヴィンテージトレモロ

アーテック ビンテージ トレモロ SE-VTM

アーテック ビンテージ トレモロ SE-VTM

ではありません。

あしからず

80年代後半〜90年代

参考資料(ソースはWiki

DRAGON BALL 1 (ジャンプコミックス)

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ドラゴンボールの連載は『週刊少年ジャンプ』(集英社)で1984年51号から1995年25号まで、全519話。

DRAGON BALL #1 [DVD]

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アニメは1986年2月26日から1989年4月19日までフジテレビ系で放送された。全153話で番組としては終了する。

DRAGON BALL Z 第1巻 [DVD]

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引き続きドラゴンボールZ
1989年4月26日から1996年1月31日まで、アニメ版『ドラゴンボール』の続編としてフジテレビ系で放送された。全291話 + スペシャル2話。

最後がドラゴンボールGT

DRAGON BALL DVD BOX DRAGON BOX GT編

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1996年2月7日から1997年11月19日まで『ドラゴンボールZ』の続編としてフジテレビ系で放送された。全64話 + 番外編1話

「本気で行くぞ!」と「キレる」の関係

たぶん、「本気」があるということが、80年代後半から90年代前半には信じられていたと思う。「本気を出せば、こんなもんじゃないんだぞ、見てろよ」というセリフを吐いたことがある当時の小中学生は、少なくないはずだ。ドラゴンボールにその原型を求めることができるかどうかは不明だが、少なくとも、当時のジャンプ的なもの(他に、幽遊白書

幽★遊★白書 1 (ジャンプコミックス)

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とかジョジョの奇妙な冒険
ジョジョの奇妙な冒険 1 (ジャンプコミックス)

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とかジャングルの王者ターちゃんとかろくでなしブルース
ろくでなしBLUES 1 (ジャンプコミックス)

ろくでなしBLUES 1 (ジャンプコミックス)

とかスラムダンクとか
SLAM DUNK 1 (ジャンプコミックス)

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では、「本気を出せばなんとかなる」あるいは「本気を出せば話が進展する」とか「本気をだせば現状を打開できる」という方法論がとられていたと思う。

この場合、普段は、なぜかリミットがかけられていて実力は十分でてないのだけれど、そのリミットを解除すれば、俄然強くなって挽回できるみたいな構図だ。そして、この構図はある意味で、リアルなものとして信じられていたように思う。模試の後で、先生が言った一言。「お前らの実力はそんなもんなのか」

ところで、「キレる」と言われるのは、だいたい1984年以降生まれの人たちで、小中から高校生にかけての時期に言われていたように思う。確認はできていないが、最初に言われたのは1995年あたりなのではないかと思う。

思うに「キレる」とは、「本気を出す」の短縮バージョンなのではないか。「本気を出す」というのは、基本的に、日常としての制限と、非日常としてのリアルを使い分けることで、非日常を聖化することをそのおもな機能としてもっているが、「キレる」というのは、この「本気」の舞台装置そのものを加速させ、日常と非日常の区別を無効にするという機能を持っていたように思う。つまり、そもそも「キレる」というのは、「本気を出す」をリアルに感じていた世代を、前提しながら揶揄するという作用だったのではないだろうか。